定年後の読書ノートより
大衆化理論とは(思想の科学事典より抜粋)

資本主義の独占化・高度化は企業の巨大化、組織化をもたらし、組織の内部に支配、統制、操作、管理、運営等のピラミッド型官僚機構を発達させ、人々は組織の部品として位置づけられ、形式合理性に基づいて、どのような目的にも役立つ組織人に仕立てられる。利潤を追求する企業、それに対立する労働組合も同様な巨大組織である。

大衆はマスコミの発達等によって社会への参加が可能となるが、他方支配層の操作の対象にもなる。大衆は「砂のような群集」として分断され、原子化され画一化される。ここから大衆の政治的無関心、無力感等の病理現象が生まれる。このような大衆はそのままでは、資本主義社会の矛盾を変革する労働者階級としては凝集せず、受益者層化した受動的な大衆として資本主義社会に埋没し、拡散してしまう危険性をもっている。

一方において機構化が進行し、他方において分化=原子化が進展する現代社会のなかで、「孤独なる群集」と化した諸個人は二つの方向に代償的に自己回復を図ろうとする。一つは家族を中心とするプライマリー・グループへの逃避であり、もう一つは大衆文化への埋没である。

「大衆社会」理論とマルクス主義、上田耕一郎著、大月書店
大衆化現象と極左冒険主義

40年前の論文(安保闘争前)だが、今読み返し、大衆社会理論に対する上田氏の視点は正しかったと再認識させられる。

大衆社会理論はマルクス主義理論に替わりうるのか。マルクス主義は、確かに指摘されるごとく個人の思考方法、社会心理学的アプローチが欠如している。

それにしても大衆化現象が成熟しつつあった日本にあのような極左冒険主義がどうして起きたか。極左冒険主義は大衆化現象にどうして関心を持てなかったか。ひとつには党の中に日本を高度に発達した資本主義の国としての認識が弱かった。さらに中国の革命方式を無批判に適用した過ちがある。歴史予見的な科学的作業が欠如していた。政治理論においては高度に抽象化すればするほど誤謬をおかす危険は大きい。スターリンの誤謬も抽象能力のつまづきから始まっている。

それにしてもなぜ党は誤謬を検証、訂正出来なかったか。インド共産党は誤謬を自ら訂正出来た。日本の革命は中国の如き内乱の形ではじめることなど明らかに不可能だ。しかし当時の極左方針には、こうした社会的、技術的条件についての過ちを正すことすら出来なかった。マルクス主義には現実への関心と理論化の伝統が薄かったと認めざるを得ない。特に中間層をマスコミの宣伝下に放置し、党から離反させてしまった。

大衆社会論の体制内受動的大衆像は、革命的変革を拒否する大衆像でもある。党は大衆化現象、小ブルジョアの動揺を食い止めて労働者階級に惹き付ける独自の方針なくしては革命を前進させる事はできない。しかし大衆化理論は中間層帰属意識を促進させ労働者意識を解体させている。これを克服することなしに、中間層は自己を解放することは出来ない。マスコミの位置づけはその時点の階級間の力関係によって決定される側面もある。党は大衆の気分を的確に把握出来なかったのは、大衆軽蔑とエリート主義の現れでもあった。大衆の気分は革命運動における評価すべき重要な情勢判断のひとつである。党には大衆の気分を重視する活動に欠けていた。もし大衆の気分を重視する伝統があれば、極左冒険主義も避けられたであろう。

しかも大衆の気分の測定方法も非科学的であった。この点マルクス主義は最近の社会学や社会心理学に学ぶべきである。単に指導者の政治感覚にのみに頼ってはならない。当然ながらマルクス主義では受動的な大衆としてではなく、積極的に行動しうる大衆として中間層を把握すべきで、闘争への参加によって大衆の気分は変化しうるという視点が重要である。

マスコミ威力の過大視化、人間のパーソナリティをひからびた類型に分類していく大衆社会理論ではなく、個々の生きた人間の認識過程に直接働きかける、能動的な活動が必要である。まず理論教育活動、感性的認識から理性的認識に高め、大衆行動への扇動、政治的実践への行動が必要である。宣伝と扇動と行動によりマスコミによるシンボル操作を打ち破る。戦後の極左冒険主義の誤謬は、新憲法で築かれた民主主義の意義を誤認したことにある。国民大衆は民主主義を守り抜き、これと矛盾するものに闘っていくことで自らを高めうる。民主主義を守り、議会を通じ権力機構へ前進していくことが必要なのだ。

  1. 大衆社会的モデル構成の問題点

大衆社会という社会学的類型が思い付かれたのは、ナチス・ドイツの病理現象の説明からである。ドイツのファッシズムは帝国主義の階級間闘争の敗北が生んだものであり、アメリカは労働者階級の組織化が未成熟な大衆社会である。

そうした意味で大衆社会論は階級の論理を脱落しており、現代の論理ではない。大衆を非合理的、情緒的、非人間的な大衆に転化させようとする支配階級の論理に外ならない。大衆社会の病理現象の解決を革命の論理ではなく、大衆社会の内側、小集団活動に期待しようとするものであり、感性的認識を一歩も出ようとしないのが大衆化理論である。

しかし大衆社会理論が指摘する機械時代の大衆化状況に関して感性的認識をマルクス主義は理性的認識にまで高めていないのも事実だ。しかも大衆化状況の体制による利用のされかたを学んでいない。

この背景には帝国主義論の欠如がある。大衆社会理論は帝国主義ではなく独占資本主義という。死滅しつつある帝国主義という概念の無視、または過小評価によるものだろう。帝国主義の不均等発展の法則による、支配の論理と階級の論理の対決度合いがこの大衆化理論の盛衰と関連する。

  1. 日本帝国主義の崩壊・変質・復活

日本はアメリカに従属する、高度に発展した独占資本主義国である。歴史的に総括すれば上からの非軍事化、下からの民主化、驚いて上からの非民主化。アメリカ帝国主義への完全な国家的従属。日本では階級の論理が支配の論理に対抗、時には圧倒出来た。戦後の日本では階級闘争の激化傾向が一貫している。日本帝国主義の復活は中国革命の勝利を折り返し点としている。以後帝国主義の復活は続く。

消費文化の洪水。私的な幸福を追求する傾向として政治的無関心あるいは平穏感覚と呼ばれる一群の心理状態は、徴兵を勘定に入れないでよい青年の社会的安心感と結びついている。一種の保守感覚への転化もこれと関連する。

共産党の弱体化が支配の論理と階級の論理の非妥協的な対決を鈍化させ大衆化現象の心理的基盤になっている。大衆社会理論は帝国主義についても、大衆の民主主義的闘争エネルギーの源泉についても、初めから何も語ろうとしない。

大衆社会論と危機の問題(安保闘争を経て大衆社会論をどう評価するか。)

アメリカ型大衆社会像とナチスドイツ型大衆社会像の融合に体制・反体制の視角を結びつけた日本の大衆社会論。経済的復活は擬似労働貴族と体制受益感覚を生んだ。都市中間層に民主主義の空洞化現象を促進した。

大衆社会論はマルクス主義の硬化した窮乏化論と植民地・従属国論という教条主義に対し、独占資本主義の上昇期における、民主主義の消費安定化と内部侵蝕を主張する理論として、戦後民主主義に現れた新しい側面を理論的追求を試みた功績は大きい。

一方では独占の支配の近代化を主張する理論でもあった。経済的安定と政治的安定の基礎に福祉国家トーンとなった社会大衆論。近代政治学者の安保闘争における政治抵抗活動とは対照的に大衆社会論の評価は失格である。

安保闘争は戦後民主主義の空洞化の危機を覆した。民主主義のエネルギーは蓄積された。中間層の無関心も急速に政治的関心に転化した。独占の発展は広範な反独占民主主義の統一革新運動を生み出す。安保闘争の中で大衆社会論は、安保反対・民主主義擁護の戦線を拡大する上で積極的貢献を機能したが、知識人の戦線で大衆民主主義から市民民主主義へ回帰し、市民主義の理論を事実上の指導理論と掲げることになった。

しかし市民民主主義は敵としての独占を不明確にする政治的保守主義と通ずる一方、その一部は巨大組織の官僚化という大衆社会論の批判を継承して、安保闘争の過程で、既成組織への不信という結論にまで到達した。この面で市民主義の一翼はまたトロッキズムとも結びついて、独特な新しい左翼ををも形成しつつある。こうした思想も大衆社会論の新変種として、今後独自な批判の対象となるべきものであろう。

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