定年後の読書ノートより

一粒の麦−同時代のこと−吉野源三郎著、岩波新書

吉野源三郎はベトナム、ホー・チミンに関して素晴らしい論文を973年4月雑誌「世界」に残している。

1920年30歳の若きホー・チミンが民族の解放を求めてフランス紳士淑女に必死で訴えた。しかしこのベトナム青年の心を真に捉えたのは、レーニンの1冊「民族問題に寄せて」であった。彼は繰り返し繰り返し読んだ。そして何という熱情、何という明晰な洞察と自信、ホー・チミンは喜びで泣いた。「植民地民衆と資本主義国労働者階級との間の、不可分の連帯関係」をレーニンは半世紀前、見抜いていた。ベトナム戦における政治対決の経過は後世の歴史家に譲る外ないが、我々は歴史の必然性をもって事態を正しく認識することはできる。

しかし認識の重々しさは必然的判断ではなく、実然的判断がはるかに優れている。理論の体系化の前に、激変しつつある現実を捉え直すことが必要なのだ。洞察はそれだけでは現実を動かす力にはならない。その洞察が情熱を帯びた思想となり、人間を内部から衝き動かさねばならない。レーニンの理論が、若きホー・チミンを全人間的に揺り動かした。歴史には時としてヒロイックな「人間としての極度の誠実心」というものが、人を全人間的に動かす時がある。人間のモラルと結びき、魂の問題をしっかりと捉えてこそ、思想は時代を動かすことが出来る。ホー・チミンを全人間的に動かしたレーニンは、人には語らなかったが、常に心の奥底には労働するあらゆる人々、抑圧されているあらゆる人々への熱い愛情を懐きつづけていたと彼の棺の蓋を閉じるに際してにクループスカヤは語り残している。

政治とは最初から倫理的問題であり、最後まで倫理的問題である。もしも自分一人に留まらない問題が一人の人間を捉え、そこに座を占め、しばしば彼の個人的な関心を圧倒するということがなかったら、およそ普遍的な意味を持つ問題が、理論的にせよ、実践的にせよ解決を見出すことはありえない。

一人の人間が万人の運命を−自分の階級の運命や自分の民族の運命を−何物にもまさって心にかけるということは、小さな個体としての人間が、個体を超越する立場に立つことである。そして個体でありながら、自ら個体を超越出来るということは、精神を備えた人間という存在にだけ可能なことである。それが最も人間的なことだといってもよいであろう。純粋にこの超越が果たされるならば、そのとき個体としての自己は、彼にとって、もはや、どうでも良いことであろう。個体としては最期を遂げるのである。

一粒の麦もし地に落ちて、死なずば唯ひとつにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし。

ホー・チミンの一生は、私たちに、この有名な言葉を思い出させる。ベトナムの青年達はホー・チミンの遺志と期待を裏切らなかった。そして彼らもまた、一人一人、多くの実を結ぶ麦となったのである。

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