定年後の読書ノートから

君たちはどう生きるか、吉野源三郎著、岩波文庫、1982年

この本を始めて読んだのは、確か中学2年生、名古屋市立天神山中学校の学校図書館にあった日本少国民文庫だった様に思う。タイタニック号で遭難し海に投げ出されながら最後まで歌を忘れなかった或日本人のオハナシと1冊になっていたように思う。

当時自分は父を早く亡くし、叔父の家の暗い2階の作業場で製菓業の仕事を手伝いながら中学に通い、自分も早く就職して母を楽にしてあげたいという一心だった。しかしこの本を読んで、学問を学ぶとは長い人類が築いてきた知恵の最先端に立つことだと教えられ、よし自分も高校へ行こうと考え始めたことを思い出す。

今回何十年ぶりに読み返し、巻末にある丸山真男氏の「君たちはどう生きるか」の回想も始めて読んで、この本の主張を丸山氏は実に深く読み込んでおられると敬服した。しかし丸山氏の回想は所詮大人の読み方であり、何もかも知った大人の読み方であることは、同時にこの本が大人も読むべき本であるとも今回再認識した。同じ印象を持つ本に「星の王子さま」がある。

2つの本は、いずれもファッシズムに耐えながら人間如何に生くべきかを思索する知識人の魂の叫びを謳いあげた名著であるが残念ながらこうした本を現在一生懸命になって読まれる大人の人は非常に少ない。しかしこのように綿密に読み直された丸山真男氏もひとつだけ見落としておられるのか、触れられていない箇所がある。

[第4章、貧しき友]の最後に「おじさん」は、世の中にものを生み出す人の側の存在を知ったコペル君に対して、ひとつの質問を残しておられる。「君は、毎日の生活に必要な品物ということから考えると、たしかに消費ばかりしていて、何一つ生産していない。しかし自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、なんだろう。…・・・・・・・お互いに人間であるからには、誰でも、一生のうちに必ずこの答えを見つけなくてはならないと、僕は考える。とにかく、この質問を心に刻みつけておいて、ときどき思い出して、良く考えてみたまえ。・・・・・・・」この本の中で幾つかの伏線をはって読者に知的緊張感を持続させる著者吉野源三郎氏も、この質問を本書で再度繰り返してこの答えに近づこうとはしておられない。この質問は故意に忘れられたのだろうか。どうしてだろう。実は丸山真男氏が吉野源三郎氏が亡くなられ弔辞を書き上げる過程で、涙を流しながら「君たちはどう生きるか」を再読し回想を書かれた時にもこの質問とこの答えについては触れられていない。

コペル君が気づかないうちに、毎日生み出しているものとはなんだろう。決して人に聞いてはいけないよ」と、「おじさん」は、念をおしている。コペル君が受けた質問の答えは何だろう。

私はこの質問こそ本書のテーマだと思う。吉野源三郎氏は問う。「君たちはどう生きるか」。西川尚武はこう思っています。今こうして生きている自分達こそ、人類の長い歴史の最先端に立って、素晴らしき者、人間を生きている。自分の一生は時間的には限界がある。しかし誰もが自分の一生は、長い生命の灯の最先端に立つ貴重な一人であり、生きるということは、生命誕生から現在まで、無限な時間のバトンタッチで受け継がれてきた生命の灯を受け渡していく、素晴らしい時間の舞踏会の主人公なのだ。君は隣につながる人類仲間の歴然たる一人であり、生きて明日を創り上げていく貴重な1人なのだ。これこそ「おじさん」が、コペル君に自分自身で気づいて欲しかった謎であると思う。では何故吉野源三郎氏はこの答えを読者に質問のまま残されたのだろうか。われわれは、抽象的な、深遠な思索を誰もが正確に理解出来る文章にすることは極めて難しい。しかし、文章には出来ないが心では比較的正確に通じあえる。そしてまた、こうした難解な哲学的命題を本当に意味あるものにするには、読者に心で感じて貰う外ないと吉野氏は考えられたに違いない。文には書けない世界を心で読み取っていく、この努力こそ本の価値をさらに高めていく読書態度でもあるのではなかろうか。

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