定年後の読書ノートより
現代の教養をめぐって、阪大名誉教授山崎正和著、学士会会報No824(1999-7)
19世紀後半は修養の時代であり、倫理、実践、人生経験が尊ばれた。20世紀に入ると、修養は教養に替わり、人格の隅々まで知識が浸透し、倫理的に優れた振る舞いをする人が知識人として称賛された。

しかし教養および知識の時代は情報の時代へと急激に変化した。

知識を身につけた教養人という概念そのものも揺るぎ始め、社会で崇められるのは、沢山の情報を持った人となった。情報を運ぶための手段であるテレビ・新聞・さらにインターネットが隆盛を極め、それらの情報を駆使する能力があるか否かが現代人の資格として問われることになった。

我々の文明は大きく変った。教養は商品化され、人々は時間の中で楽しむことを覚え、心を動かす対象を金で手軽に買う習慣が確立した。諸学は哲学から独立し、人間は何の為に学問するかといえば、正しく生きる為だという長い伝統が、いつしか知ることと、生きる事との間に強い脈絡が薄れ、学問は生きる事自体とはさしあたり関係がないという方向に動いた。哲学の体系は音をたてて崩れた。

情報は多様性があり、新しく、珍しく、役に立ち、脈絡よりは断片性が強い。情報は必ず実用的である。知識は情報と知恵の中間にあって、常に体系化の方向を目指し、新しいものを古いものと整合させ脈絡づけようとする。

知識は常に新しくなるという意味において情報の性質を持ち、常に古いものとの整合性を持つという意味において知恵と似ている。現代の大きな流れが情報へと向かうのは、役に立つという事は勿論大きな理由だが、情報は断片的であることも社会の民度が上がるにつれて、情報に有利になり、情報が民衆に受け入れられ易いことになる。

逆説的にいうならば、多くの人が知というものに全く無関心で、過去の習慣に従って営々黙々と暮らした時代には、知恵さえあれば良かった。人々は長老の知恵に従って暮らし、知識は一部特権階級が僧院の片隅で密かに育んでいたのである。知識とは本質的に知らない事を知ることである。やがて人々が知ることを喜びとし始めるにつれ、難しいものより分かりやすいほうが良いという意識が芽生え、断片的であればあまり考えなくて済むので楽でよろしい、流れは急速に情報へと進んでいったのである。

庶民の民度が高まると反権威主義的な気風が強くなり、難しい内容を押し付けられるのはかなわないと民衆は無言の姿勢で反発する。情報には権威の匂いがなく、頭ではなく足で集めるものなので、知識に比べ情報の方が断然受けがよくなってきた。今や情報化時代と言われるが、これは知識自体が断片化の方向に進んできたことによってもたらされたものであるとも言える。

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