定年後の読書ノートより
経済学・哲学草稿、マルクス著、城塚登訳、岩波文庫
本書はマルクス26歳、パリ時代に書かれたマルクス主義形成初期の作品であるが、彼の死後発見され、刊行された。本書は未完の草稿で、遺稿は各所に脱落さえあるが、青年マルクスの思想形成を知る上で重要な文献である。内容は、スミス・リカード等国民経済学の諸古典から出発し、資本主義経済下では、労働者は働けば働くほど無力になり、社会は資本家と労働者階級に分化されていくという事実を先ず要約する。この視点に立って、労働者の作った生産物は労働者に立ち向ってくる「疎外された労働」がおきるのは何故かをマルクスは考察する。

労働は人間の類的機能である。類的機能である労働が、人間から分離されると共に、その対象である自然も人間から分離される。これは私有財産の本質から発生する問題である。ここでマルクスは疎外の止揚について、疎外とその克服を真なる人間の生成行為、発生史としてとらえ私有財産の積極的止揚としての共産主義を真なる人間の発生史として認識する。

マルクスはここに哲学の根底を明確にする。

人間が物質的労働によって自己の対象界を真に人間的な対象として形成しなければならない。こうしてはじめて、人間は他在のうちでも自分自身であることが出来る。「共産主義」においては、人間と人間との間に、人間と自然との間に、抗争的矛盾はなく、むしろ「自然主義」と「人間主義」とが相互に合致させることが出来る。

しかし、本書は非常に難解な哲学書で、ストーリさえも容易に理解困難である。しかし各所に胸をうつ、人生の鋭い洞察眼があり、以後これらの人生観を抜き出して、貴重な座生の言葉としたい。

労賃、労賃は資本家と労働者との敵対的な闘争を通じて決定される。その闘争で資本家が勝つ必然性は何処にあるか、資本家は労働者が資本家なしで生活できるよりも長期間、労働者なしで生活できる。

労賃にとって最低の、どうしても必要な水準は、労働者の労働期間中の生活を維持できるという線であり、そしてせいぜい労働者が家族を扶養することが出来、労働者という種族が死滅しないですむという線である。

分業が高度に行われている場合は、労働者にとって自分の労働を他の部面へ向ける事はきわめて困難であり、資本家に対する労働者の隷属関係のもとにあっては、まず損失をこうむるのは労働者である。

労賃:彼等はより多く稼ごうとすればするほど、ますます多くの自分の時間を犠牲にし、一切の自由を完全に放棄して貪欲に奉仕するための奴隷労働をやりとげねばならない。そうすることによって、彼等はそこで自分の生涯を短縮するのだ。労働者の寿命がこのように短縮されることは、労働者階級全体にとっては有利な状態である。というのはこのことによって、つねに新たな供給が必要となるからである。この階級は完全に滅亡してしまわないためには、彼等自身の一部分をつねに犠牲にしなければならない。

分業:資本の集積は分業を拡大させ、分業は労働者の数を増大させる。また逆に、労働者の数は分業を拡大させ、同様に分業は資本の集積を増進させる。一方でのこの分業と、他方での資本の集積とともに、労働者はますます一途に労働に、しかも特定の、きわめて一面的な、機械的な労働に、依存するようになる。

労賃の上昇は、資本家のもつ到富欲を労働者のなかによびおこすが、しかし労働者はこの到富欲を、ただ彼の精神と肉体とを犠牲にすることによってしか、満足させることはできない。

疎外された労働;労働が労働者にとって外的であるということ、すなわち労働が労働者の本質に属していないこと、そのために彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福とは感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的及び精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は退廃化するということにある。だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとに自分であると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎを持たない。だから彼の労働は自発的なものではなく、強いられたものであり、強制労働である。そのために労働は、ある要求の満足ではなく、労働以外のところで諸要求を満足させるための手段であるにすぎない。

人間は一つの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をも彼の対象とするからであるが、そればかりではなくさらに、そしてこの事は同じ事柄に対する別の表現にすぎないが、さらにまた、人間は自己自身にたいして、眼前にある、生きている類にたいするようにふるまうからであり、彼が自己に対して、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在として振る舞うからである。

類的存在;人間にとって、労働、生命活動、生産的生活そのものが、たんに要求を、肉体的生存を保持しようとする要求を、満たす為の手段としてのみ現れるからである。しかし真実のところをいえば、生産的生活は類生活である。それは生活をつくりだす生命活動である。生命活動の様式の内には、一種族の全性格が、その類的生活が横たわっている。そして自由な意識的活動が、人間の類的性格である。ところがこの生活そのものが、もっぱら生活手段としてだけあらわれる。

私有財産にたいする疎外された労働の関係から、さらに結果として生じてくるのは、私有財産等々からの、隷属状態からの、社会の解放が、労働者の解放という政治的なかたちで表明されるということである。そこでは労働者の解放だけが問題になっているようにみえるのであるが、そうではなくて、むしろ労働者の解放のなかにこそ、一般的人間的な解放が含まれているからなのである。そして一般的人間的な解放が労働者の解放の中に含まれているということは、生産にたいする労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されており、またすべての隷属関係は、この関係のたんなる変形であり、帰結であるに過ぎない。


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