定年後の読書ノートより
哲学入門、三木清、岩波新書
ヘーゲルを読まずしてマルクスに没入する人も、観念論を読まずして唯物論に没入する人も、大岡昇平氏曰く、なんて可哀相な!と。氏のこの言葉と、氏が引き合いにだした、ヘーゲル否定の教科書右へならえの皮肉交じりの例証が如何にもユーモアに溢れ、それならと、西田哲学に凝り固まっていると評されている、1940年三木清執筆の岩波新書「哲学入門」を、大学ノートを横に、丹念にノートしながら、一大挑戦してみた。

三木清はこの本の序に書いている。哲学は学として、究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少なくとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここでは、私の理解する限りの西田哲学であると。

晩年、観念論からマルクス主義へ転向の姿勢を見せていた三木清、西田哲学批判を執筆し始めていたという三木清、まさかあの、西田哲学そのものなんかは、書かないだろうと期待して読み始めたのだ。ところが、西田哲学そのもののこの入門書、極めて自分には理解しにくい論理体系だ。殆ど判らないと言った方が正直だ。三木清は書いている。哲学とは日々に接触する現実を正しく見る事であり、現実についての考え方に何らかの示唆を与えるものであると。しかし、自分はマルクスの書いたものが理解出来ても、どうして西田哲学は理解できないのか。

哲学は現実の中から生まれる。現実以外に哲学の出発点はない。現実の中から現実を徹底的に自覚していく過程が哲学である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねであると続く。

人間は環境を形成する事によって自己を形成する。人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であり、環境は客観である。本能は環境に対する適応の仕方のひとつであり、身体の構造と結びつき、従って本能にしても、決して単に盲目的なものでなく、むしろ本能は自然のイデーである。環境について知識を得る日常の仕方は経験である。科学はしばしば抽象的であるといって非難される。しかしながら抽象的なものの重要な意味を理解することが肝要である。抽象的なものにたいする情熱無くしておよそ文化の発達はない。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察すべきである。哲学の論理は根本において歴史的現実の論理でなければならない。以上が序のまとめである。論理はこうして知識の問題、行為の問題へと入っていく。

私はレーニンの哲学ノートでも確認したが、自分で理解できるもの、出来たものしか読書対象としないことにしている。判らないことを解ったといって、白日夢を見て自己を偽ることがどんなに恥かしいことか、何度も味わってきた。今回も自分はこの本が理解出来ない。ただ、理解出来ない本を解った顔をしてまとめ上げることは致しませんと再度申し上げます。

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