定年後の読書ノートより
読書と人生、三木 清、新潮文庫
大岡昇平氏を読んで、ヘーゲルを飛び越してマルクスに近づいた日本の知識人は可哀相だという一文に、背をたたかれて三木清を読んでみた。

もし三木清が、青春時代の自分の書棚にあったなら、そして何度も読み返す機会を持っていたのなら、自分の人生はもっと大きく変っていたかも知れないと思うと残念でならない。

印象深い箇所を記し、再読への覚えとしたい。

  • 弁証法には確かに深い真理があるが、ただ、始めから弁証法にとりつかれると、マンネリズムに堕して却って進歩がなくなるとか、折衷主義に陥って却ってオリジナリティが塞がれるとか、すべての問題を一見いかめしそうでその実却って安易に片づけてしまうとかいった危険があることに注意しなければならぬ。虎を描いて狗に類するといったことは弁証法には多いのである。学問において尊いのは外見ではなくて内実である。難しく見えても、また深そうに見えても、根が常識を出ないのでは、学問の甲斐はないであろう。
  • 読書の習慣は早くから養わねばならぬ。学生の時代に読書の習慣を作らなかった者は恐らく生涯読書の面白さを理解しないで終るだろう。大切なことは読書の習慣を作ることである。
  • 読書の習慣を得た者は読書のうちに全く特別の楽しみを見出すであろうし、その楽しみが、彼を読書から離さないであろう。ひとはひとりで読書のよろこびを味わうことが出来る。古今東西のあらゆるすぐれた人に接することが出来るというのは読書における大きな悦びである。
  • 自分自身の読書法を見出すためには先ず多く読まねばならない。多読家でないような読書家がいるだろうか。濫読と博読が区別される一つの規準は、其の人が専門を有するか否かということである。もし一度で理解することが困難であるならば、しばらく間をおいて再び読むようにすれば良い。
  • よく言われることは日本の哲学が難しいのは、それが西洋の哲学の模倣であり、翻訳であるからである。哲学には何か本当に模倣出来ないもの、翻訳できないものが含まれている。模倣や翻訳出来ないものを、模倣し、翻訳しようとするから、難しくなる。そのようなものは哲学の理論的要素ではなく、思想的要素であろう。それだから大哲学者の書いたものは、亜流の書いたものより本質において判りやすい。思索の根源性があるからだ。古典は判りやすい。それは思索の根源性があるからだ。天才的な単純さといったものである。

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