定年後の読書ノートより
哲学ノート、ベェ・イ・レーニン著、大月書店
或る日書棚から取り出して中を開いてみた。レーニンが1895年から1916年まで読んだ本の、読書ノート10冊を、訳したものである。レーニンはすごく難しい哲学書を実に丹念に、綿密に読んでいたことが良く判る。1枚の実物写真がある。ノートの文字は必ずしもきちんと揃ってはいない。後から読み直すことを目的にノートを採っていたとは思えない。本を読みながら考えたながら、横にノートを置いて、こまめにメモしていたに違いない。1895年、ノート1冊目はマルクス・エンゲルス共著の「聖家族」だった。よし、自分もこのレーニンのノートを克明に写して、同時に横にME全集第2巻「聖家族」全文を読みながら、レーニンがこの本を読んで、何処をどのようにノートしていったか、復元してみよう。そうすればレーニンの読書法や、ノート術、さらに思考法まで推測出来るかも知れない、そんな期待を夢に、1冊の新ノートに、レーニンの読書ノートを模写し始めた。

早速序文で驚いた。レーニンは「聖家族」を1度通読してからノートを執ったとしか思えない考察が最初に出てくる。これは未読の本では書けない序文メモだ。しかし、どうやら読書とノートは同時進行したようだ。ということは、実に注意深く、アンテナ高くこの本を読んでいたようだ。「聖家族」は、全222p、対する読書ノートは30p、すなわち本の1/7が、全文書き写しになっている。自分はノート30pを書き写すだけで随分時間を要した。レーニンも当然ながらすごく書き移しに時間を要しているはずだ。忙しかったであろうレーニンが、何故それだけの時間をノート書き移しに使ったのだろうか。合理的に時間を使おうと思えば、本の中に赤線して、余白にメモを書き入れ、要領良く読書出来たであろうに。どうせ将来読み返す積もりで書いていないノートなら、赤線で充分ではないか。しかし、自分は、本の文章を書き写して行くうちに、ノートを書く事によって、本を読むと違った、更に深い理解と考察が自分の中に生まれて来る事は自覚できた。ノートを採る効果は、どうやら書きながら考察出来るメリットらしい。

しかし、それにしても全文を写さずに、内容を自分なりにアレンジして、再構築して、イメージ化したものをノートした方が、記憶が深くなるのではないかと思うが如何なものだろうか。

きっとレーニンは、先ず著者の主張するところを可能な限り正確に、そのまま受け入れ、考察しようとしていたのではないか。それにしても弁証法の哲学書は難しい。こうした本は、その世界の研究者と一介の書斎人が同じレベルで理解出来るものではない。しかも難解な書物の理解も覚束ない自分には、レーニンの読書法なんてとても参考に出来るものではない。「聖家族」を読んでところどころに、ああ大切なことが、無造作に、短くまとめられているなあと感心するが、本全体を読んでもこの本を読了したなどととても言えない。これは資本論を読んだときも同じ気持ち。難解な本を読んで解ったような顔をするほど、自分はあつかましくない。難しい本はこうしてレーニンでさえも、丹念に、こつこつと読んでいる、いわんや自分達は難解な哲学書を表面だけ読んで、勝手に征服気分を味わっていてはいけない、むしろ自分に合った本を、まずこつこつと確実に読んで行くことだ。生半可な読書は、自分を駄目にする。

レーニンのノートを日本語で創ってみた。丁度新ノート1冊を要した。結論として自分の足元を知れ、自分の立っている所を知れ、いいかげんな飛躍や、自在変化の夢など白日夢に過ぎない。自分に合った道を歩こう、それが自分の足元を知る一番大切なことだと自分に言い聞かす。

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