定年後の読書ノートより
或日の大石内蔵助。芥川竜之介著、新潮日本文学
書き出しに格調ある。「立てきった障子にうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明るみを、右の端から左の端まで画の如く鮮やかに領している。元浅野内匠頭家来、当時川家に御預かり中の大石内蔵助良雄は、その障子をうしろにして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。」

「そうだ。すべては行く処へ行きついた。それも単に、復讐の挙が成就したというばかりではない。すべてが、彼の道徳上の要求と、殆ど完全に一致するような形式で成就した。彼は事業を完成した満足を味わったばかりではなく、道徳を体現した満足をも、同時に味わうことができたのである。しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心のやましさに曇らされる所は少しもない。彼として、これ以上の満足があり得ようか。」

大石のこの心境は、しかし次第に崩れていく。部屋の仲間たちは、最近江戸で庶民の仇討ちが喝采を集めている。これも大石等の快挙の影響だろうと、幾分はしゃぎ過ぎの世間ばなしに大石は話題転換の誘い水を流す。「いや、我々お殿様の仇討ちを成し遂げたのは、結局下っ端連中で、くらいの上の方々はみな退いていかれた」と大石。しかし話は、ますます大石讃歌に傾き、敵の目を欺く京都祇園の放蕩は見事だった。結局欺かれたのは敵ばかりではなく、味方の血気盛んな連中すら、大石裏切りと言い寄ったと長老は語り続ける。

しかし、大石の心中には、あの当時、祇園放蕩を続けた自分の心の何処かに、他人には言えない動揺はあったことを、自分はどう解釈すべきなのか、じっと自分に問い掛ける。

「彼は己を欺いて、この事実を否定するには、あまりにも正直なひとであった。勿論この事実が不道徳なものだということも、人間性に明らかな彼にとって、夢想さえ出来ない所である。従って、彼の放蕩の総てを、彼の忠義を尽くす手段として激賞されるのは、不快であるとともに、後めたい。」大石は廊下にでて梅を観る。

「このかすかな梅の匂いにつれて、冴えかえる心の底へしみ透って来る寂しさは、この言いようのない寂しさは、一体何処から来るのだろう。−内蔵助は、青空に象嵌したような、堅く冷たい花を仰ぎながら、何時までもじっと、佇んでいた」

芥川の人間深層心理にいどむ、さえた作品のひとつである。人間の心の動揺を、他人には言えない自分だけの世界でじっと考え抜く。これは現代人の暗い裏側を覗かせる怖い世界の作品でもある。

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