定年後の読書ノートより
「聖家族」再読、マルクス、エンゲルス著、大月書店
新潮社のマル・エン選集で読んだのは、1年前。今読み返してみると、自分でも恥かしくなるほど、力んでいる。こうした力みはもう定年後の自分にはふさわしくない。

これでは、年若い学生の、始めて社会科学の書に接して昂奮した読書感を1歩も出ていない。今回は大月書店のマル・エン全集によって「聖家族」全文を読んだ。しかもレーニンの読書ノートを併読しながら精読した。実感として、こういう難しい本を理解するには、年を取りすぎている。生半可な読書感が生まれたのは、本の選択及び未だ人生の経験を読書に反映していない自分自身の知的対応力不足である。これが「聖家族再読」第一結論である。

今回読書で理解した2番目のこと。マルクスの本には、あまりにも頻繁に知的な風刺と、論敵への執拗な嘲笑が多すぎて非常に判りにくい。そのすきまをぬって、論点を求めていくと、ものすごく大切なことがいとも無造作に、こともなげに書き散らされている。これでは読む者も疲れてしまう。どうしてマルクスは論点を判り易く書いてくれなかったのか。

今回、「聖家族」から教わったこと。私有財産批判は、人間の感情を最も激昂させる貧困と窮乏の事実から出発している。私有財産に対立する労働者階級は、自らを揚棄することによって、対立物である私有財産をも止揚させる。有産階級は、自己疎外のうちに快適と安閑を感じ、この疎外が自分自身の力であることを知っており、疎外のうちに人間的な外観を保っている。労働者階級は、この疎外のうちに破壊されることを感じ、このうちに自分の無力と非人間的な存在の現実をみとめている。私有財産は、その経済的運動につれて、自分自身の解体に向かって推し進められる。それは労働者階級が自分の精神的肉体的な窮乏を自覚し、自分の非人間化を自覚し、自分自身を、そしてその対立者を止揚する。労働者階級の止揚は対立物の止揚でもある。歴史的に余儀なく進める歴史的行動が、労働者階級の生活状態の内に、社会のうちに、明白に示されている。労働者階級の大部分は、その歴史的任務をすでに意識しており、努めている。

「聖家族」とは、バウアー等青年ヘーゲル派のことを言い、この書はマルクスとエンゲルスが共著し、2人がヘーゲル哲学の観念論から別れ、フォイエルバッハによって示された唯物論の世界に立つ事、貧困と窮乏の労働者階級の立場に立つ事を明記した書である。

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