定年後の読書ノートより
清貧の思想、中野孝次(東大哲学卒、国学院大教授)著、草思社
先日TVで、老天才ピアニスト園田高広氏のドイツ留学時代の思い出話。あるドイツ人曰く、「ヘーゲルも読んだことがない日本人なんてベートーベンが理解出来るのか」そう言われた時、園田氏は頭にかっと来たそうだが、その後この言葉の持つ深い意味が次第に判ってきたと述解しておられた。この本も同じ思想から出発している。

中野先生は日本及び日本人を外国人はこう見ているよと書いている。「日本人はビジネスマンも旅行者もあって話をすると金の話しかしない。一体彼らは金儲け以外に関心がないのか。政治、音楽、国際関係、哲学、民族問題、歴史等についてかれらは話すことが出来ないようだ。まるで金のあるなしだけが人間の価値を決めると信じているかのようだ」「日本人は自分の哲学を持ち、自分のライフスタイルに自信を持って、何事についても一見識あるような人をめったに見たことがない。パーティで土地の人間と対等にいろいろな話のできる者も少ない。自国の歴史についても無知だ」(136pより引用)

中野先生はここで我々にこう諭す。「日本には清貧という美しい思想があった。所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させるという逆説的な考えがあった」と。

清貧とは貧乏ではない。それは自らの思想と意志によって積極的に作りだした簡素な生の形態です。清貧とは禁欲原理としか受け取らず、それがアジアの汎神論的な感性をもととした積極的な宇宙との一体化原理であるとまではかれらには想像も出来なかったようだ。われわれの祖先は自然と同化し、自然の中にあってその幽気にひたることをこのんだのです。庭園、家屋、山水画、詩歌,あらゆる精神活動に流れている先人の感性は自然と同化するのをよしとしてきた、と。

我々は自らは気がつかないこの感性こそ、エーリッヒ・フロムが、テニセンと芭蕉の詩を比較して指摘している「所有すること」の存在様式と、「存ること」の存在様式の違いであると、次元の高いまとめをされる。西欧的感性は自己と他、自己と自然とを分離し、対象化された自然を認識するために所有し分解してしまうのに対し、日本的(東洋的)感性はまさにその正反対で、自我の束縛から自己を解放したときに始めて真の我が出現する。あらゆる欲望や我執から自由になったとき始めて人は全宇宙と一体になることが出来ると考える。中野先生はこの日本的思想を清貧の思想として胸を張って外国人に語り続け日本人を見直してくれと訴え続ける。

しかし、清貧の思想は、あくまで先人の思想であり、資本主義日本登場以前の思想である。かって中国で残虐無尽を尽くした皇軍の思想が皇国史観であったごとく、東南アジアの資源を奪いつくし、世界隅々までに科学技術最先端商品を売り尽くす日本ビジネスマンにとって、彼等の信条が[ 清貧の思想] とはとうてい有り得ない。ビジネスマンに今何が読まれているか、人気トップは司馬遼太郎だという。しかし司馬文学にある哲学をいま誰がさらに高度な次元に高めているのか。ヘーゲルを知らなかった園田氏は必死になって弁証法を学んだという。園田高広氏曰く、日本人の野球選手で誰が弁証法を真剣に学んでいるのか、こんな日本ではいつか、世界から馬鹿にされるよ、と。

ここをクリックすると読書目次に戻ります