定年後の読書ノートより

うらやましい死に方、五木寛之構成、文春11月号
804通の読者投稿の中から、30通を五木寛之氏が選び出し、「一つの“希望”としての死」と題して、選考の感想を書いている。五木氏は夜を徹して読み、死の問題を綴る投稿の1つづつに、何度となく泣き、涙でぐしゃぐしゃになったと書いている。庶民の優しさ、強さが希望に結びつく、そんな感動だったと書いている。人の死を語る事、それは人の生き方を語ることだ。

五木氏は彼の実感として、すぐれた知性は、死という得体の知れない怪物に対しても立派に働く力をもっていると最後に言い切っている。知性というものは、人間の死に対して迷いを深めるばかりと疑っていたが、どうやらそうではないようだ、知性は死に対しても力を発揮できると五木氏は力説する。

勿論庶民の盲目的な家族愛や素朴な信仰に偉大なものを感じ、これこそが庶民の死への偽らざる救いだと言う。

老人とは何をしても礼を言い、言葉が出なくなると拝み、泣いている弱い人、これは間違いなく老人の赤裸々な姿でる。

投稿者の1人、ある老人ホームの医師、高橋氏の手記。誰もが家族の手厚い看護を受け、経済的にも不安なく、長く寝込まず、苦しまずあの世に旅立ちたいと願う。しかし老人ホームの死の幾つかは、家族からも棄てられ、死後の連絡すらも断わられ、家族の立ち会いも無く哀しく息を引き取る老人もいる。「うらやましい死に方」とは、人間として、誰かに大事にされながら息を引き取る死に方であると高橋氏は言い切る。

世に長寿を喜んでいる老人達の風景がある。老後の体力傾斜、生命力傾斜は矢張り誰にとっても言い知れぬ恐怖だ。長寿必ずしも幸福と喜べる単純なものなのだろうか。むしろ、傾斜曲線、緩やかな今をこそ、活性化して生きるべきではないか。読みたい本は読まなければいけない。書きたい絵は描かなければいけない。捧げたい愛は捧げなければいけない。そうだとすれば、何故貴重なる残された時間を売ってまでして僅かばかりの金を得たいなど、どうして考えられようか。。長寿を願う単純な哀願では幸福は得られない。まだ、残された力を持つ我々は、現在を生き抜く強い知恵こそ大切ではないか。長寿必ずしも幸せではない。幸せは、今この時間にある。

マルクスの最愛の妻イエンニーが亡くなった時、エンゲルスはつぶやいた。「マルクスはもう長くは生きられないだろう。彼はほどなくして死ぬだろう。これはもう周囲の人でどうすることも出来ない神の問題だ。」エンゲルスの予測した通り、妻を亡くしたマルクスは1年を経ずしてこの世を去った。死とはこういうものだと思う。

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