定年後の読書ノートより
司馬遼太郎と藤沢周平、佐高信著、光文社1999年7月版
司馬遼太郎氏をどう読むか、藤沢周平派である佐高氏が歯をむき出しにして強敵司馬遼太郎氏に挑む。自分は司馬遼太郎氏の「街道をゆく」を読み、この分野でこれだけの仕事を残した作家が他に誰があろうかと、熱烈な司馬ファンである。時々友人から司馬氏は保守的で人生を上から眺める作家だ、藤沢作品の如き、そこには本当の人生がないと忠告を受けることがあるが矢張り司馬さんが好きだ。
司馬作品は、歴史の道を通行する人間を俯瞰的手法で書く、一方文壇文学は内向的で、何となく薄暗く、大衆性がないが、司馬作品は非常に判りやすく、実にすっきりしている。読んでいて元気が出てくる。日本株式会社企の業戦士達にとって高度成長経済の道をまっしぐらに走りながら、氏の作品にはいつも共鳴できるものを実感したに違いない。しかし司馬氏の作品の中で歴史の流れだけを追っていくとそれは権力者の歴史の世界に追従していく結果になる。歴史的可能性がどうして一つの現実になったか、それを描こうとすれば民衆レベルの悩み、迷い、様々な人生の結び目に注目しなくてはならない。しかし司馬作品にはそれがない。
司馬作品は判り易さを優先するため歴史を単純化している。特定の人物のみに密着しすぎると、横からの働いている圧力が見えなくなってしまう。すべてがその人物の意志で進んでいるように見える。司馬作品は日曜日にごろりと横になってくつろいで読むサラリーマン階層の歴史観にぴったりし、佐高氏はここで司馬氏の功罪を糾弾する。
例えば江馬修「山の民」では、重層的うねりがある。しかしマルキシズムの歴史観に忠実であろうと力を入れすぎたため、個別の人間描写よりも歴史の原動力は何かということにこだわってしまった為か日本の読者には受け入れられていない。邪気はないが、司馬氏、柳田邦男氏には天皇制につながる日本のいまの根本問題が見えていない。あったかそうで冷たいのが司馬作品で、とっつきにくそうで暖かいのが藤沢作品だ。
私は佐高氏がどう書こうが、「街道をゆく」は、現代の奥の細道であり、私が読みたい作品だ。マルキシズムに沿った作品分野からは、こうして地道に全国を歩き、その地の文化、人間、歴史をこれほど深く文章にした作品はない。僕は今のマルクス主義作家には書けないだろうと思う。視点が違う。姿勢が違う。佐高氏は司馬氏を肯定していく懐の広さに欠けていると思う。彼は言うかも知れない。村や山や寺を歩きまわって、そこに何が意味があるかと。大体そうした指摘が出てくると、マルクス主義作家達の底が見えてくる。左に位置する作家諸氏、もっとおおらかに、謙虚に、しかし情熱的好奇心で若々しく出来ないものかと残念である。

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