定年後の読書ノートより
小林秀雄の世代、大岡昇平著、現代日本文学体系第60巻、筑摩書房
小林秀雄論というよりは、昭和初期知識人論とでもいうべき作品で、思わず引き込まれて読んだ。印象に残る箇所をここに抜き出してみたい。
  • 私もベルグソンについて、小林の百分の一も知らない人間の一人だが、「感想」を論じるために、「物質と記憶」を読み返そうというくらいの気持ちはある。
  • 問題は小林の世代のものの考え方に関している。「様々なる意匠」以前の思想が、小林の生活体験から生まれてくる経過は、江藤淳「小林秀雄」に美しく著述されている。
  • 哲学は現在不思議に流行らなくなった学問である。本屋の書棚でも人文科学の僅かな部分を占めるにすぎず、神田の一流の古本屋で、ピランデルロの「生けるパスカル」が「パンセ」と並んでいる始末である。
  • 如何に生きるべきかについては、万事社会学が実際的に教えてくれると信じられている。
  • 私は以前から西田幾多郎を除いて、プロレタリア文学以前の文学を論じる不備を感じていた。
  • 小林の思弁的構造は、大正の哲学的雰囲気なしには説明出来ないと思われる。
  • 無論これらは哲学的ニュアンスであって、哲学そのものではない。
  • 人間が理性的動物である以上、どんな少年にも哲学的諸問題は課せられる。
  • これらの疑問を解決しないでも、生きるのに何の支障もないが、それが気になる少年にとっては、「純粋経験」の説は、新しい視野を開くものでなければならない。
  • 哲学的思弁を知らず、対象が知覚する意識と独立して存在すると主張する人をベルグソンは咎めていないし、彼は自ら二元論者であるといっている。しかし、外在を実在すると考えても、問題を少しも易しくしないのは、人間の脳髄の存在である。脳髄も考える存在である。脳髄を考える主体にとって、外界であり、物質でなければならないが、そこには大脳皮質の映像を含めて、膨大な映像が貯蔵されていると考えなくてはならない。
  • 映像が我々に内在するか、外在するものであるかという問題は、文学にとって永遠の問題であるらしい。
  • 弁証法唯物論以後に現れた知性は、こういう思弁に興味を持たない。マルクスはそういう思弁的操作に馴れた哲学者であったが、その本は、人がそういう思弁をせずにすむように書かれている。
  • あらゆる教祖の書物の特色だが、同時にヘーゲルを知らないマルキスト達に、正反合の機械的操作によって、能事足れりとする怠情な習慣を与える。雨降って地固まるという諺は弁証法的思惟の見本である。
  • プロレタリアの解放という現実的要請があったとはいえ、ヘーゲル抜きにマルクス主義が輸入されたのは不幸であったということが出来よう。マルクスは弁証法はヘーゲルでは逆立ちしていると言ったので、論敵の論理を逆立ちしていると論難することが流行した。ヘーゲルは世界史を正反合による理性の発展過程と見るけれど、実は自然がそのような発展法則を持っているのである。ヘーゲルの弁証法はその反映に他ならないと言われた。しかしこれではヘーゲルはまるで馬鹿みたいなものではないか。

ここまで読んだとき、図書館の中で思わず大声を出して笑い出してしまった。皆がじろりとこちらを見た。笑いを抑えるのに苦労した。しかし大岡さんって、実に大切なことを上品に、ユーモラスに言ってのけたと感動した。大岡さんの深い知性が一度に光って見えた。小林秀雄の周辺には、こうした知性の輝く人々が集まっているとすれば、それは見事な情景ではないか。よし自分もこうした知性の輝きにもう少し近づいてみよう、そう決意した。