定年後の読書ノートより
「文明の衝突」を支える観念論、サミュエル、ハンチントン、集英社
民族紛争が何故起きるかを考察した「文明の衝突」は、次の言葉を基本哲学としている。

人間は理性のみによって生きているものではない。彼等は自己の利益を追求する上で、計算し、合理的な行動をとる前に、まず自分を定義づけなければならない。(そうした自身の定義づけ、つまりアイデンティティの追求が文明間の紛争につながる。)(アイデンティティは他者との関係で規定されるものであり、「われわれ」対「彼ら」という構図が、政治の世界にはほぼ普遍的に存在する。現代社会では「彼ら」が異なる文明に属する人々をさす傾向が強まっており、ここに文明間の対立発生の原因があると考える)。」この基本哲学はヘーゲルの観念論に立脚している。それではマルクスは唯物論の立場から、人間と宗教、そして国家の問題をどう把握しているのか。マルクス青年期の古典を読んでみると、現実生活である下部構造と国家という上部構造との対立を天上と地上という言葉で表し、この矛盾の中で人間を利己的行動をとる動物の側面と、同時に類的存在として精神的克服をする側面があると規定している。ここではマルクスの古典を引用し、マルクスはどう考えていたかを確認する。

ドイツイデオロギーをひも解くと次のような言葉が出て来る。

「この理論なり、神学なり、哲学なり、道徳なりが既存の諸関係と矛盾する場合でも、そのようなことが起こるのは、既存の社会的諸関係が既存の生産力と矛盾するようになっているからに他ならない。ちなみに言えばそのような事態は、ある一定の状態にある国民の場合は、この種の矛盾がその国の領土の内部においてではなく、その国民の国家意識と他の諸国民の現実の状態との間、例えばある国民の国家意識と一般意識との間のに起こった場合にも発生する。」と。

このマルクスの思想は、一般に下部構造と上部構造といわれている概念であり、他の文献「ユダヤ人問題によせて」ではさらに具体的に展開されている。

「ユダヤ人とキリスト教徒の間のもっとも頑固な対立のかたちは、宗教上の対立である。対立をどのように解消するか、対立を不可能にすることによって。宗教上の対立をどのように不可能にするのか、宗教をすてることによって。ユダヤ人とキリスト教徒が、お互いに宗教を、ただ、人間精神の様々な発展段階として、歴史によってさまざまな段階に脱ぎ捨てられたヘビの抜け殻として、そして人間を、前にはぬけがらをかぶっていたヘビとして、認識しさえすれば、彼らは最早宗教の関係にではなく、ただ批判的で、科学的で、人間的な関係に立つのである。」この断定的な結論に対して、では現実はいかなる視点で捉えるべきかを弁証法を駆使して更に詳しく論じている。

「人間は宗教を公法から私法に追いやることによって、政治的に、自分を宗教から解放する。人間が、たとえ限られた範囲内であっても、他人との共同関係の中で類的存在としてふるまっている、そういう国家では、宗教はもはや国家の精神ではなく、利己主義の領域、万人にたいする万人の戦いの領域である市民社会の精神となっている。宗教はもはや結合の本質ではなしに区別の本質である。それは人間がその共同体から、自分自身やほかの人間から分離するということの表現になっているからである。」さらに、もっと具体的に、国家と市民社会という言葉を使って上部構造と下部構造を見事に論じている。

「完成した政治国家は、その本質からすれば、人間の物質的な生活に対立する、人間の類的生活である。こうした利己的な生活のいっさいの前提は、国家の領域外の市民生活のなかに、ただし市民生活の特質として、存続している。政治的国家が成熟に到達したところでは、人間はその思惟や意識の上ばかりではなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活をいとなむ。天上の生活とは政治的共同体での生活であり、そのなかで人間は自分を共同体的存在だと考えている。地上の生活とは、市民社会での生活であり、その中で人間は自己本位に活動し、他人を手段と考え、自分自身まで手段にまで堕落させて、ほかの勢力の玩弄物となる。政治的国家は、丁度天上が地上にたいすると同じように、市民社会に精神主義的にふるまう。政治的国家は、ちょうど宗教が俗世間の偏狭に対立すると同じように市民社会に対立し、俗世間の偏狭を克服すると同じようなやり方で市民社会を克服する。つまり、国家もやはり市民社会を再び是認し、建て直し、市民社会の支配を受けないわけにはいかない。ということになる。人間は、その直接の現実のなか、市民社会のなかでは、世俗的な存在である。かれが自分や他人に対して現実の個人として通用しているこの市民社会の中では、彼は真実でない現象である。これに反して、人間が類的存在として通用する国家のなかでは、かれは一つの仮想的な主権の想像上の成員であり、その現実の個人的生活をうばわれ、非現実的な一般性でみたされているのである。」なんて深遠な考察か!

同じ思想は「聖家族」の中でも展開されている。

「かれらを真に結びつけているものは、市民的生活であって政治的生活ではない。このように、国家が市民生活の原子を結合させるのではなく、個人が観念のなかでしか、空虚なうぬぼれの中でしか原子ではない。ということ、そして実際には原子とは絶対に違う存在であり、つまり神のような利己主義者ではなく利己的な人間である、ということが、かれらを結合させるのである。実際には国家が市民生活によってまとめられているのに、逆に市民生活が国家によってまとめられているに違いないと、今日でも考えているのは、政治的迷信にすぎない。

人間という言葉から発したハンチントン氏の言葉は、すでに150年も昔、マルクスが、徹底的に考えぬいたテーマであり、安易にアイデンティティなどという言葉で、こうした複雑な問題をまとめあげられないとこを、もう一度認識した。

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