定年後の読書ノートより
哲学を知ると何が変るか、鷲田小弥太著、講談社
哲学を学ぶには3種の神器が必要。「西洋哲学史」「哲学概論」「哲学事典」。この本は、読者に西洋哲学史を論じつつ、自分の哲学入門体験を軸として、自分の言葉で語りかけてくれる。

印象に残るところはあちこちにあるが、ここでは、62pの、「科学=虚構と考えなかったマルクス」の節が面白い。

唯物論者マルクスはユニークな思考者だ。思考癖は観念論哲学の親玉であるプラトンに似ている。2人とも科学=絶対確実な認識の上に哲学を打ち立てようとした。プラトンは「数学」の上に、マルクスは「経済学」の上に。ところが絶対確実な認識というものは、「数学」がそうであるように、虚構なのである。「点」なるものは観念として存在しているが、現実には存在不能なのである。「科学」は虚構であるからこそ、厳密性を徹底でき、現実を測る尺度となりうる。絶対確実な認識=科学に基いてことをなすということが、当然2人の生き方になった。しかし、虚構=正しさは、現実を計測する基準にはなるが、現実ではない。

ましてや、虚構=正しさを、そのままストレートに現実化するなどということは、不可能である。プラトンやマルクスは、人間が無制限な欲望を持つ事を「悪」とみなし、無制限な欲望のもとを絶つようなシステムをつくろうと試みた。これは、どんなに清々しいように見えても、人間の過剰な生命力を否定する。そんな社会が出来ても、生身の人間は生息出来ない。

この歴史の中で蓄積された膨大な習慣を捨象して、一足飛びに科学を、正しさを「実践」しようなどというのは、失敗と悲惨さを約束されているのである。「数学」にしろ、「経済学」にしろ、確実な認識が成立つ「条件」がある。

「点」という長さも面積も体積もないものが、集合すると線分になり、平面になり、立体になる、というのは原理的には不可能である。この不可能さを問わない、ということを「条件」に、数学は成立している。この条件がなければ、数学は虚構であるだけでなく、虚構の産物になる。経済学になると、もっと多くの条件が必要になる。しかも、その条件といわれるものは、とりあえずは、絶対確実な認識であると検証できない事柄に属している。

マルクスは、科学にどこまでも依拠して進もうとしたが、科学の「限界」を暗黙のうちには知っていたということもできるわけだ。端的には、その科学の書「資本論」は、科学以上のもの、つまり「形而上学」によって支えられているということを自覚していたといって良い。

鷲田小弥太の何気ない、1節に深い洞察があり、それを実感すると、哲学を学ぶ面白さ、大切さをあらためて実感できる、見事な哲学入門書である。

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