定年後の読書ノートより
ヘーゲル・人と思想、大東文化大沢田章教授著、清水書院
1770年ヘーゲルはドイツ・シュツッガルトに生まれた。ジェームスワットが蒸気機関を発明して5年後、ナポレオンがコルシカ島に生まれて1年目、この年ベートーベンが生まれ、1776年アメリカ独立宣言、同年アダムスミスの国富論が世に出した。

当時ドイツは神聖ローマ帝国末期にあり、300に及ぶ領邦に分裂、イギリスでは産業革命、フランスでは旧制度の打破と市民社会の形成が進むのに対し、ドイツは後れ、引き裂かれた国民で、屈従こそ当時のドイツ国民全体をとらえた言葉だった。

ローマ教皇と皇帝カール5世に反抗したルターは新教諸侯に結びつき、旧教諸侯と新教諸侯の対立を生み、宗教改革は一層ドイツを統一から遠ざけた。国民の積極的意識や階級的自覚はしぼんでいまい、ドイツ国民の政治的自由は全くうばわれてしまった。その上30年戦争は、新旧教徒の対立とヨーロッパにおける地位低下を進め、神聖ローマ帝国とは名ばかりの存在になった。

18世紀プロイセンのフリードリッヒ大王とオーストリアのヨゼフ2世が啓蒙的専制君主として台頭してきた。しかし、自国領土拡大をねらうプロイセンの発展も、自国民に対しては「ただ服従あるのみ」だった。当時の中産階級知識人は世に出る道は貴族の家庭教師しかなく、彼等は歴史性、現実性をきりすてて、理念として精神的、内面的、理論的、抽象的に追求していく世界―抽象的な普遍性―におぼれ、当時のドイツ知識人の求めていたものは、頭のなかだけの理性や自由や人間性の追求であった。

思想は外在化しない限り、観念の国でのむなしい遊び、自己慰安に終わってしまう。カントは純粋理性批判で人間理性の価値をイギリス経験論と大陸合理論の統一の中に求めた。フリードリッヒ大王曰く、「意のままに論議せよ、しかしひたすら服従せよ」。ドイツの啓蒙主義は国家権力の後見的機能と結びつき、ドイツ的歪みの中にあった。疾風怒涛の文学運動とはこういう性質のものだった。政治ではマキュアベリと秘密警察が暗躍し、許されているのは信仰の自由だけだった。政治の場ではなく、哲学や文学の領域のみが理念的に展開していた。

こうした状況下でヘーゲルは哲学とは筋道を立てて考えることと定義し、哲学とは存在するものとして歴史的現実の中をつらぬき、かつリードしている理性の真の姿を筋道をたてて明らかにすることであるとした。ヘーゲル哲学は表現が難解であり、言葉使いが理解しにくく、解釈が多様で全体像把握が困難であるが、ヘーゲルこそ弁証法を確立した。

大論理学(1816)2巻3冊では絶対知即ち純粋知の内容を概念の自己運動の過程として明らかにした。テーゼ→アンチテーゼ→ジテーゼ即ち有→無→成の弁証法でとらえ、ヘーゲル独自の理論をのべた。ヘーゲルは矛盾があらゆる原動力といい、矛盾の論理を打立てた。ヘーゲルは、運動し発展する現実の世界が示す矛盾を解明する運動の論理、発展の論理を「弁証法の論理」として示した。カントは、理性が解決できない矛盾を二律背反としたが、ヘーゲルは、このような矛盾は、現実にはどこにでも在ると言った。ヘーゲルの弁証法は、彼自身の実存的な体験や、フランス革命のような急速に変転していく現実の中から読み取ったに相違ない。

フォイエルバッハは、ヘーゲルの理性主義的形而上学に反対して、神とはもともと人間が考え出したものに過ぎないのだから、哲学は現実に存在する人間、つまり、肉体をもち空間的、時間的に存在している具体的人間から出発しなければならないとした。マルクス、エンゲルスはこの考え方を継承して、弁証法的唯物論を確立した。

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