定年後の読書ノートより
武器としての笑い、飯沢 匡 著、岩波新書
この本も怒りから出発している。ロッキード事件で、あれほど国民の怒りが燃えたのに、選挙結果は自民第1党、共産党は多くの議席を減らしている。そもそもロッキード事件で、怒りを表した芸術家はいたのか。飯沢氏はかろうじて光ったのは、漫画家の山藤章二氏だけだという。衛生無害清涼飲料水的本質の武者小路実篤氏の「仲良きことは美しき哉」の野菜3つを児玉、田中、小佐野の似顔に代えてしまった1枚は傑作だった。ここにはベルクソンの「笑い」が見事に作品化されている。

日本人は悲劇は書けても喜劇は書けない。日本の喜劇には習練による技術を軽視し、それを誤魔化すために、不必要に誇張し、かえって真実を失っていることにある。技術が肝心なのだ。喜劇は大真面目に技術を伴ってやれば、そういう方法でやれば、現実の矛盾が大きく観客の前に拡大されて哄笑をさそうのである。

日本では数少ない笑劇であった狂言すら、徳川期には本質を圧殺されて、日本には喜劇が育たなかった。徳川の為政者は、笑いが下克上の本質を持っているこを知っていた。笑いを圧迫した徳川の治世は人間性の発展から言えば、不自然極まりない。日本では笑いは取締まられ、不真面目で、不道徳とされてきた。徳川は儒教というユーモア皆無の教えを政治の根幹にした。従って悲劇ばかりが流行った。風刺は二重構造になっている。いつも逃げ道がつくってある。川柳は無署名だ。もし署名があれば、それは死に通じた。日本では喜劇は圧迫と蔑視の歴史の連続で、日本では喜劇は流行らない。

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