定年後の読書ノートより
いま人間であること、宮田光雄著、岩波ブックレット
この本の言葉を頂いて、著者の主張に耳を傾けたい。

無駄なものをただいたずらに作りまくり、売りまくり、競争することを生きがいとするような人生は、もはや成りたたなくなっている。宣伝や広告に踊らされ、お仕着せの消費財貨を買いまくり、使いまくり、使い捨てることをもって豊かさだと錯覚するような時代は、もはや終わってしまった。むしろ持つ文明の中で、他人より多く持つことによって幸せを求める生き方は、いつまでも相対的な窮乏感を募らせるだけ。やみくもに生産と消費を拡大することを止めなければ、だれ一人として豊かな幸せも感じられぬままに、確実に地球を食い尽くしていくことになる。本当の人間らしさとは何か、人間らしく生きるとは何か、そもそも生きる意味は何か、今あらためて原点に立ち返って考え直さねばならないところにきている。

日本人はこのままでいくと“考えない人”になる。人間にとってかけがえのない人間の証しである自由とか、人権とか、平等といったような理念に、まったく関心をいだかない国民として、全世界から軽蔑の眼差しで日本人は見られていくのかも知れない。ドイツ人の歴史的責任を論じたバイッゼッカー大統領の講演を日本首相の誰が出来るのか。日本政府がとってきた姿勢は、自国の歴史の罪責に目をつむり、自国賛美を繰り返す、次の世代の人々にこれで顔向け出来るとでも考えているのだろうか。

人間の尊厳性と独立性を真に構成するのは、人間における内なる自由である。

思想の自由に代表される精神的自由権は、人間の尊厳の根幹をなす。自分が人間であることを未来の世代に対して証明するためには、人間である誇り、人間であるしるしを証明することである。

ある卒業式、当日になると、校長の命令で、ゲルニカの旗を拒み、日の丸が張られ、事前のリハーサルにはなかった“君が代”を歌えと言い、6年生の大多数は抗議して座り、歌おうとしない。君が代を歌わせようとする校長や一部の外部者から飛ばされた口汚い野次が一瞬とまったとき、6年生の一人の女生徒は、その決意表明を次のように締めくくった。「私達は怒りや屈辱をもって卒業します。私は将来、絶対に、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」。

自分は会社生活40年間、こんな校長の真似だけは絶対にしたくないと生きてきた。それが自分自身の人間としての良心の基本であると信じて生きてきた。人間とは何か、それは未来の人間に責任をもって、自分も人間として一生懸命生きてきたと言える人間になることだと思う。権力者に迎合して生きていく、それは人間としての矜持を失い、政治的にも、倫理的にも堕落し、人間的なるものへの希望や、人間の能力に対する信頼を粉砕し、人間性の破壊につながっていくと考えてきたし今も考えている。

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