定年後の読書ノートより
現代文学史(1975年発行)、小田切秀雄著、集英社
古本屋で200円で見つけた。こうした本は最近図書館では置いてない。自分が高校生時代注目した進歩的文芸評論家小田切秀雄の昭和50年代の現代日本文学を総括した作品。関心ある幾つかのテーマに関し、小田切はどう書いていたかメモした。

純文学と通俗文学の違いとは何か。

作者自身の裸の心で追求するのが純文学。興味本位で読者に迎合するのが通俗文学。作者と読者の作品内部での取引き比率で、2つの文学は分かれる。大正9年新聞小説菊池寛の「真珠夫人」を新型通俗小説のスタートと位置づけている。

文学史上に現れた、プロレタリア文学へのコンプレックスとは。

反プロレタリア文学を固執しながら、横光利一や川端康成のように片岡鉄平に頼まれ非合法党員に部屋を貸したり、大仏次郎のように党資金を出したり、芦沢光次郎・山本有三、野上弥生子の如く「同伴者作家」の道を歩いた作家。伊藤整は戦後長くプロレタリア文学にコンプレックスを持ったと書いている。党神話とコンプレックス意識は根深い。

新興芸術派の位置づけ

反又は非プロレタリア文学として集まった作家達。心理や意識のなかに微妙に動くものを繊細かつ精確にとらえ、それを追って行こうとする独自の世界を作り出そうとした。横光利一、川端康成、井伏鱒二、堀辰雄、阿部知二、舟橋聖一等。

宮本顕治の「敗北の文学」の位置づけ。

プロレタリア文学の古典。割り切り方に強引なところがあっても、政治家になる前の宮本顕治のみずみずしい共感とつよい批評家的思考とによって芥川と対決している名作。

転向が及ぼした日本文学の位置づけ

強大な権力の圧迫のもとで進行した思想、信条の敗北・崩壊・なんらかの再起というこの時期の精神の多様なドラマは、分散的形態に転じたプロレタリア文学のその後の進みかたに深くかかわり、「不安の思想」ともかかわっている。

小田切秀雄は、プロレタリア文学とその周辺での文学者の良心を鋭く把握している点で他の批評家とは時代感覚がひときわ違っていた。しかしもう小田切の時代ではなく、現代では、なんとなく肯定、なんとなく否定、そして迎合という文学批評が定着。一体この中から何が生まれてくるのか、批評家自身がすでに自信を失っているのではないか。

小田切のプロレタリア文学を軸とする批評時代はすでにとっくに終っている。しかし、いま人々は心の崩壊を実感していながらも、いまだ新しいものを何も掴んではいない。新しい文学は今何を軸として生まれてこようとしているのか。価値観喪失の現代、人々が読書離れを起している現代、一体文学はどこを目指して進んで行くのか。

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