自転車の歴史探訪

 
田中久重のスケッチ

   「からくり儀衛門」こと田中久重(1799年10月16日〜1881年1月11日)が、自転車を作ったという話を聞くが、いったいどのような自転車を作ったのか、判然としない。
 弟子の川口市太郎の手記「智慧鑑」(ちえのかがみ・明治24年)には、たくさんの発明品が書かれている。その中に「一、自転車二輪車ニ(に)三輪車ヲ製造ス、(明治元年)ノ頃」と記されている。
 この記事からすぐに「明治元年に田中久重が自転車を製造した」とは当然ならない。それ以外の資料がいまのところ皆無だからである。もちろん、当時の自転車も残っていない。手記も製造時に書いたものであればともかく、それから20年以上も経過している。自転車を作ったのは間違いないとしても、それが明治何年なのか確証できない。

   1993年の春にオープンした江戸東京博物館の所蔵資料のなかに、田中久重の書いた「長崎日記」が、あることが分かった。「智慧鑑」以外に自転車を記述した資料が2冊出てきたのである。それも1866年(慶応2年)1月の日付である。この日記の一冊には、三輪車のスケッチとメモが2ページわたり書かれていた。

「長崎日記」の左ページ 江戸東京博物館所蔵

 この図の左上は恐らく三輪車を上から見たものである。前輪は、後に登場するラントーンと同様ハブ・ステアリングの特徴が見える。更に駆動方式は足踏み式で、後輪軸の右寄りに小歯車があり、これを介して後輪を駆動させる仕組みのようである。
 左下のスケッチは横から見たもので、人が三輪車に乗っている様子が分かる。また後輪軸の小歯車と駆動輪の接続状況を知ることも出来る。ただ、その手前にある、米印形の車輪の役割がよく分からない。これも駆動輪の一つなのであろうか?それとも増速の歯車か伝動輪なのであろうか?
 中央の円形模様の図は駆動輪を表していると思われるが、どのような仕組みなのか判然としない。同じく右上と、その下の円形模様も何を表すのか今のところよくわからない。
 右下の小さい図は三輪車の平面図で、左上のスケッチと似ているが、別の形の三輪車と思われる。薄い和紙に書かれているので、裏面にあるスケッチが透けて見えている。このためスケッチが少し見にくい。

「長崎日記」の右ページ 江戸東京博物館所蔵

 この図は、右ページのものである。文字の右側にあるの乗り物は、一人乗り蒸気車と書いてある。田中久重は、1855年(安政2年)に蒸気車・蒸気船〔外輪式〕の模型を製作していると伝えられているので、一人乗りの蒸気三輪車を作ったとしても不思議ではない。

 彼が、明治11年頃までに試作や製造したものは多岐にわたっている。次のようなものがある。
 万年時計〔万年自鳴鐘〕、蒸気船〔スクリュー式〕の雛形、蒸気車・蒸気船〔外輪式〕の雛形、アームストロング砲、無鍵の錠、電話機〔試作〕、製氷機、ネジ切りゲージ、自転車、人力車、精米機、写真機、昇水機、改良竈、旋盤楕円削り機、煙草切機、醤油搾取機械、種油搾取機、報時機など 。

 間違いなく自転車も作ったと思われるが、この「長崎日記」のスケッチからも直列二輪の自転車を見ることはできなかった。次に登場するラントンも直列二輪の自転車ではない。明治時代以前に今のところ直列二輪の自転車が現れた形跡がない。

 田中久重のその後については、明治6年(1873年)に上京し、明治8年(1875年)に東京・銀座で電信機の会社である田中製作所を設立している。これが東芝の前身である。

参考資料:

●「田中久重の自転車スケッチ発見か」 大津幸雄
   日本自転車史研究会機関誌 ”自轉車”72 1993年3月15日発行