自転車の歴史探訪

 
ラントンが自転車の火付け役

   初めて、ジャパン・パンチの画にあるラントンを知ったのは、1982年2月であった。一通の手紙が大阪の高橋 勇氏から届いた。高橋 勇氏は、自転車店を営むかたわら、自転車の歴史に造詣が深く、城東輪業の寺島常蔵氏とともに以前から古い自転車や資料の蒐集をしていた。また、高橋氏は、1981年6月に日本自転車史研究会が発足した当時の初代顧問でもあった。残念ながら今は故人となっている
 手紙には次のように書かれていた。

 「自転車の年号的に一番古いと思う確証のあるものは”ジャパン・パンチ”に出てくる「自転車を見て驚く江戸市民」で、明治2年と明記があり、この画は、自転車(三輪車)を手で動かしているように見え、私が持っている三代目広重の「江戸日本橋繁栄之図」や五雲亭貞秀の「横浜鉄橋之図」の錦絵とも合う。

 高橋氏が指摘したとおり「一番古いと思う確証のあるもの」と述べているが、私もそう思っている。既に述べたとおり、自輪車をはじめ確証がもてる自転車が未だに出現していないからである。私は、この画に出てくる「ラントン」が日本の自転車普及の火付け役になったと考えている。このラントンの登場から1年後に竹内寅次郎によって直ぐに模造され、商品として販売されたからである。残念ながら日本の自転車の歴史は、このラントンの三輪車から始まったのである。
 残念と書いたのは、ミショー型の自転車を期待していたからである。だが、よくよく考えれば、直列二輪の自転車は、直ぐに乗ることができない。何度も練習して、やっと乗れるようになるからである。誰が見てもこのように不安定な乗り物に違和感を持ったとしても不思議ではない。ところが三輪車であれば誰でも簡単に乗ることが出来る。日本で直列二輪の自転車が遅れた原因の一つは、そこにあったと思う。ドライジーネが先に移入されて、ある程度馴染んでいればともかく、いきなりペダル付きの直列二輪の自転車では無理もない。

 明治2年から明治10年ぐらいの間を見ても、何時、ミショー型自転車が輸入され、流行したかということが、いまだにはっきりと年月を特定することが出来ない。あえて特定するとすれば、それは、明治10年頃ではないかと思われる。この辺のことは、何れ述べたいと思う。

 西欧では1869年(明治2年)といえば、ミショー型自転車の隆盛期を迎えている。それなのに極東の小さな島には、1台もそれを証明する資料や実物が無いのである。例え、日本の土を踏んでいたとしても、関心を示さなかったのであろう。ところが、このラントンの出現は、まさに「自転車を見て驚く江戸市民」のように、日本人に強烈な印象を与えたのである。

江戸の開市 1869年1月1日 ジャパン・パンチ掲載の挿絵 

 このラントン車は、イギリスのジョセフ・グットマンが考案し、1863年5月21日に同国で特許を取得した三輪車である。翌年の1月22日にはフランスでも特許を取得している。
 この画が描かれたのが、1869年1月なので、日本には遅くとも1868年中に入ってきたと思われる。特許取得から製造販売までの期間を差し引けば、3年後あたりで日本に上陸したことになる。航空便がない時代にしては、かなり早い輸送であったと思う。
 早いと言えば、このジャパン・パンチの記事が特派員により、1869年3月6日付けの「サイエンティフィック・アメリカン」誌に掲載されていることである。
 次のような記事だ。

   外人居留地在住の一人は最近ベロシペッド(自転車)で横浜と江戸間を何の支障もなく往復した

 初めて日本人が見たラントンの驚きぶりと、当時としては比較的長距離の走破がたいへん話題になったのである。

 ラントンの駆動方法は、手と足を使い、ほとんど体全体で動かすものであった。砂利道や坂は別として、時速8マイルから10マイル(約時速15km)のスピードはでたようである。この考案された駆動方法は成功した一つであるといえる。道路の条件がよければ、長距離でも楽に走ることができた。
 ラントンは、イギリスだけにとどまらずアメリカや北インドにも進出し、その性能は高く評価されたようである。

1865年頃のアメリカでの広告 挿絵部分



「ザ・ボーンシェーカー」VCC会報 122 1990年春号 英国・ブライドウェル博物館所蔵  

 チャールズ・ワーグマンのジャパン・パンチを見たついでに、次の画を見て欲しい。これは、一体何なのであろうか?一見、直列二輪の自転車に見えるが、この省略ぶりは、理解できない。あれほど忠実にラントンを描いたワーグマンなのに、どうしたことなのか?
 背景に富士山が描かれているところを見ると、富士山麓で自転車に乗りながら猟をしている情景である。狩猟の成果はキジが6羽だったようである。
 この画が、はたしてミショー型の自転車なのか?見ようによってはマクミランの自転車にも見える。いずれにしても謎めいた画である。
 この画は、1869年3月17日に描かれたようであるが、もしこれが直列二輪の自転車を表したものであるなら、重要な資料ということになる。何故なら未だに直列二輪の自転車を見ないからである。

1869年3月17日、富士山麓での狩猟風景 『ジャパン・パンチ』復刻版 第2巻 雄松堂 1975年

1869年の表紙 『ジャパン・パンチ』復刻版 第2巻 雄松堂 1975年



参考資料:

●『ジャパン・パンチ』復刻版 第2巻 雄松堂 1975年

●『ワーグマン日本素描集』清水勲編 岩波文庫、1987年

●「自転車の名称について」高橋 勇
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”2 1982年3月15日発行

●交通史研究第13号抜刷「日本における自転車の製造・販売の始め」齊藤俊彦
   1985年4月25日発行

●「真船高年氏からの情報」”自転車瓦版”日本自転車史研究会
 29 1985年6月15日発行

●「ジャパンパンチのワーグマン」高橋 勇
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”31 1987年1月15日発行

●「ジャパンパンチの自転車(その1)」真船高年
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”35 1987年9月15日発行

●「ジャパンパンチの自転車(その2)」真船高年
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”38 1988年1月15日発行

●「日本最初のサイクリング?」小林恵三
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”39 1988年3月15日発行

●「ジャパンパンチの自転車(続編ー1)」真船高年
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”40 1988年5月15日発行

●「ザ・ボーンシェーカー」VCC会報 122 1990年春号