自転車の歴史探訪

 
明治初期の自転車職人

   明治初年から日本に現れた自転車は、一体どのような職人達により製作されたのであろうか。

 ★田中久重(1799年10月16日〜1881年1月11日)は、「からくり儀衛門」で有名である。
 明治元年に田中久重が自転車を製造したというが、いったいどのような自転車を作ったのか分かっていない。
 彼が作った模型や試作品には、次のようなものがある。
 万年時計〔万年自鳴鐘〕、蒸気船〔スクリュー式〕の雛形、蒸気車・蒸気船〔外輪式〕の雛形、アームストロング砲、無鍵の錠、電話機〔試作〕、製氷機、ネジ切りゲージ、自転車、人力車、精米機、写真機、昇水機、改良かまど、旋盤楕円削り機、煙草切機、醤油搾取機械、種油搾取機、報時機など 。
 明治6年(1873年)に上京。明治8年(1875年)に東京・銀座に電信機関係の製作所・田中製作所を設立している。東芝の前身である。

 ★竹内寅次郎は、元彫刻職人であった。金工か木工かなど、どのような業種であったかは不明であるが、手先が器用であったことは間違いないようである。
 彼は自転車の他にも、明治3年8月には「自走船」と称する船も考案し、やはり東京府から製造・販売の許可を得ている。その後、7年ほどの沈黙期間はあったが、その間に営業を目的とした大型自転車の考案・試作に没頭していたと思われる。明治11年3月には、永楽町勧工場に実物見本の大型自転車を出品している。しかし、この自転車は、重量や運転効率の悪さ、当時の道路状況などにより結果的に失敗に終わっている。

 ★鈴木三元は、1814年に、福島県伊達郡半田村谷地(現・同郡桑折町)に生まれた。三代目藤右エ門を襲名し、村長も歴任している。そのかたわら半田銀山の経営にもあたっていた。
 58歳のときに、藤右エ門は名前を「三元」(年・月・日の始めを意味する)と改名した。
  明治9年(1876年)に三輪車「自走車・大河号」を完成させる。

  この大河号は、どうような三輪車か不明である。シンガー三輪車の模造品のようなものを大河号としているが、私はこの三輪車が発見された当初から、疑問に思っている。その理由は後ほど述べる。

 明治13年(1880年)、横浜に三元車の売捌所を設ける。
 明治14年(1881年)に開催された第2回内国勧業博覧会に自転車を出品する。同年に4人乗り三輪車を製作。東京府に「新発明製造発売願」を提出し、許可されている。

 ★小泉清助は、長野県の出身。大型自転車を製作している。
 1879年(明治12年)、「運転車」という8人乗りの自転車を用いて新橋〜浅草間の旅客輸送を計画するが、試作車の製作に遅延したため出願を諦める。
 1880年(明治13年)4月19日、「踏走車」を考案製作し、東京府へ東京〜高崎間試運転を申請したが、その後に実施されたかは不明。両方とも未完成で終わったようである。

 ★秋葉大助(1843年7月〜1894年6月9日)
 江戸生まれ。人力車の製造許可を得た高山幸助の組合に加入して人力車の製造を始める。明治10年(1877年)に第一回内国勧業博覧会に人力車を出品し、鳳紋章を受賞した。その後、「秋葉商店」として、自転車や馬車なども製作している。

 その他の職人として、伊集院隆曹、橋本金三郎、小幡安政、斉藤長太郎、 坂口清之進、田中賢三郎、佐藤運八などをあげることができるが、彼らの事跡の詳細については分かっていない。

 

  参考資料:

●「明治十年代前半における自転車事情」(西南地域の史的展開 近代編)
 齊藤俊彦 1988年1月5日発行

●「全国自転車関係工場一覧」齊藤俊彦
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”48 1989年9月15日発行