自転車の歴史探訪

 
美しいデザインのオーディナリー

   精悍なロードレーサーも好きだが、オーディナリーは格別である。まさにそのフォルムは芸術品である。置物、ペンダントや各種アクセサリ、布地のプリント模様など、いまでもそのデザインはいたるところに使用されている。それほど洗練された究極のデザインなのである。
 私がこのオーディナリーのスタイルに魅了されたのは20年前である。特に名古屋で行われたオーディナリーのレースを見たときである。なにしろ目の前で初めてたくさんのオーディナリーを見て、その前輪の大きさと乗り手のスタイルに感動したからである。ちょうどサラブレッドの名馬に跨っているような素晴らしい光景であった。
 1989年9月、名古屋市の市制100年を記念して、世界デザイン博などいろいろなイベントが開催された。その中の一つに”ワールド・ハイ・バイシクル・チャンピョンシップ”があり、オーディナリー自転車による日本最初のレースであった。当日は、イギリスのJ・ピンカートン氏をはじめ、フランス、ドイツ、アメリカ、オーストラリアなどからクラシック自転車愛好家の43名が訪れ、ロードレースや短距離など5種目の競技が実施されたのである。

 1989年7月27日付けの中日新聞では、事前に次のような報道がされた。
 ”古い自転車大集合 デ博で9月世界選手権と歴史展”
 世界デザイン博白鳥(名古屋市熱田区)、名古屋港(同市港区)の両会場で、9月にクラシック自転車の世界選手権大会と、自転車の変遷をたどる「ジ・オーディナリー・ワールド」が開かれる。
 オーディナリー型自転車は、19世紀後半に英国で開発され、大きな前輪、小さな後輪という優雅なデザイン。
 このイベントは、名古屋市などで組織する実行委員会主催で、同市制百周年記念事業の一つ。
 世界選手権は、毎年世界各地で開かれているが、日本では初めて、23日に白鳥会場で開会式と短距離種目、24日は名古屋市内でロードレース、外国からも含め約40名の愛好家が参加。
 歴史展は13日〜27日、名古屋港会場ポートビルで開く。オーディナリー型から最新型までの約15台の自転車と自転車関連用品を展示。この中には、昭和天皇が愛用された三輪車(明治40年ごろ製造)も特別出品される。

   オーディナリーの世界選手権と書いてあるが、これは世界的に公認されたものではなく、数カ国のクラシック自転車愛好会の極めてマイナーな競技会である。主にアメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダなどの愛好家により、毎年持ち回りで開催されている。残念ながら日本にはいまだにクラシック自転車愛好会なるクラブは存在しない。したがって、オーディナリー自転車に乗る人も殆どいない状況である。

 1991年6月26日〜30日、私は第11回国際ベテラン・サイクルラリーに参加した。日本から参加したメンバーは私と八神史郎、渋谷良二、小林恵三氏の4名であった。開催場所は、アメリカ、オハイオ州フィンドレーである。私は、アメリカのノーマン・バソー氏の好意によりコロンビア製の50インチ、オーディナリーを借り、フィンドレー市の美しい風景を見ながら快適に走ることができた。今でもその情景をはっきりと思い出すことが出来る。素晴らしい体験であった。

50インチのコロンビア製のオーディナリー
オハイオ州のフィンドレー大学構内を疾走する私 1991年6月29日撮影

 この素晴らしいオーディナリー自転車はいったいどのように生まれたか、次に述べてみたい。

 1870年頃、フランスのマギーは、金属製の自転車を製作した。これまでのミショー型自転車は殆どが木製でとても軽快とは呼べない代物であった。マギーは、殆どの部品にスチールを採用したのである。駆動輪である前輪の直径は48インチ、後輪は24インチであった。すでにミショー型自転車も前輪を後輪よりもひとまわり大きくしていた。一般的にミショー型自転車の車輪径は、前輪36インチ、後輪32インチである。別にマギーでなくとも、ペダルクランクが直結した前輪なら、一回転で進む距離は車輪径の大きい方が当然有利であることは分かっていた。1868年にリンゲが特許を申請した自転車を見れば理解できると思う。前に付いた転倒防止用の補助輪を外せば、まさにオーディナリーである。よく英国でオーディナリーが開発されたと言われるが、このような説は疑問である。ミショー型が考案されて直ぐに、必然的な経過で開発されたのである。

 その後、英国は積極的に自転車を導入し、いろいろな改良を加えていった。その一つが「ファントム」である。イギリスのレイノルズとネイズが1869年に開発したもので、重さは24キログラム、今日から見れば思い感じがするが、車輪は鉄リムにソリッドのゴムタイヤを装着、更にパリのメイヤーが特許を取得していたサスペンション・ホイールを採用した。前輪が34インチ、後輪は28インチで、オーディナリー型としてはまだ不完全である。しかし、この優れた技術がその後の自転車の発展に大きく貢献したことは間違いない。

 1869年11月1日〜5日まで、第1回の自転車博覧会がパリで開催された。パイプ・フレーム、マッド・ガード(泥除け)、鋼鉄製スポーク、ゴム・タイヤ、トランスミッション・ギア、前後ブレーキなどの新製品が多数出展されたのである。これらのパーツは、後の自転車発展になくてはならないものである。

 1872年、イギリスのジェームズ・スターレーは、車輪全体のスポークに張力を付加する方法として、ハブに固定されたクロスバーを採用した。このバーの両端からそれぞれ一本のタイロッドがリムに張られ、このタイロッドのネジを回して長さを調整する仕組みで、スポークの張力に均衡を保つことができるように工夫した。これを”リボン”と呼び、特許を取得した。このリボン車輪を使ってスターレーは、スミス、ヒルマンと共にコベントリー市セントジョンの自転車工場で「アリエル」を試作した。「アリエル」の名は、シェークスピアの作品に登場する”空気の精”から名付けられたものである。この「アリエル」は殆どすべてに金属を採用し、軽量化がはかられている。当時の最先端の金属加工技術を駆使し製作されたのであった。ここに美しいデザインのオーディナリーの原形が誕生したのである。

 ジェームズ・スターレーは後年に”自転車工業の父”と呼ばれるようになり、コベントリーに記念碑も建てられている。

 1885年頃になると、オーディナリー型が自転車の主流となり、特に欧米で繁栄した。この美しいデザインの自転車は一つの芸術品になり、スピードとスリル、そして何よりも乗車したときの目線からみる見晴らしの良さなど、楽しさの要素をすべてかね備えた自転車といえる。

   オーディナリー型の登場により、イギリスで自転車クラブが誕生するきっかけをつくったのも事実である。1878年にサイクリスト・ツーリング・クラブ(Cyclists' Touring Club-CTC)が発足し、その後、多くの自転車クラブが各地に生まれた。スポーツとしての自転車文化も盛んになったのである。
 驚くことに100年以上経った今日でも、オーディナリーの愛好家がたくさん存在していることである。
 オーストラリアのタスマニア島エバンデール(Evandale)では毎年2月にナショナル・チャンピョンシップ(National Pennyfarthing Championships)が開催されているし、先ほど述べた、マイナーなレースも欧米で開催されている。

 オーディナリーとは、普通という意味であるが、いつ頃そのように呼ばれるようになったのかはっきりしない。後に、セーフティ型(安全)自転車が登場したことにより、それを区別するためにできた呼び名と思われる。オーディナリーのことを、別名ペニー・ファージングとも言い、前後の車輪の大きさをイギリスの通貨1ペンスと1/4ペンス銅貨から発想した名前でる。

 わが国にオーディナリー型が入ってくるのは、明治19年頃である。
 その頃の俗称を”だるま車”と言っていた。これは横倒しの達磨から連想したと思われる。

  参考資料:

●「遠いフィンドレー」大津幸雄
   日本自転車史研究会 会報”自轉車”60 (91.9.15) 〜63(92.3.15)