自転車の歴史探訪

 
明治15年前後の三輪車

   宮武外骨(1867年2月22日〜1955年7月28日)は、明治〜昭和期を代表する反骨のジャーナリストとして知られている。彼の編集した『滑稽新聞』に、少年時代自転車が大変好きだったことが記されている。

シンガー三輪車に乗る宮武外骨
 明治14年、15歳の春、東京に出た折、或る日一人の西洋人が自転車に乗って万世橋の北よりお茶の水に至る坂を造作もなく上りしを見て、予はこども心に自転車が欲しくなり、それより後は日夜思い絶えず、後三年を経て母親より三百円の金を貰い、是非にも先年見たる自転車なるものを買わんとて、東京横浜は云うに及ばず、大阪をも探りたれども、自転車の売り物は一台も無きのみか、自転車に乗りたる人をも見ず、殆ど途方に暮れたりしが、尚念のためとて神戸に至り、彼方此方を駈廻りたれども、是亦同じく売物なし、尋ねあぐみの果、布引の滝でも見て帰らんとて同所に至りし折、付添たる車夫に此事を物語りたるに、其車夫の云うには「サホド御熱望ならばいささか心当たりあり拙者が御世話致さん今夕まで御待ちあれ」とて予の宿所をただして立去りしが、其午後果して吉報を伝え来れり、そは神戸居留地のダラム商会(後に破産して英国に帰りしと聞く)に一台の自転車あり、御望みならば銀貨二百ドルにて譲渡さんとの事なりし、予の喜び天にも昇る心持して早速同商会へ出掛け、談判の末百七十ドル(其頃の相場にて日本貨百九十二円)にて買い取りたり、其自転車は現今の如きものにはあらず、ゴム輪なれども古式の三輪車にて大なる一輪は直径五尺余あり瓦斯灯二個附の大物なりし、予は早速郷国讃岐の高松に至りて数月間其自転車にて飛び廻りしに見る人々は珍らしがりて噂さ市内に伝わりしも、予の親族の一統は眉をひそめて予の母を攻撃し、彼に自転車の如き馬鹿気たるものを買わせしは如何なるや、彼も亦日本一の馬鹿者なりなど日々非難の声を高むるのみなりし、或日予は此自転車に乗って坂出港に遊び、同所の従兄鎌田勝太郎(現今貴族院議員)方に至りしに勝太郎も亦予の自転車を見て馬鹿臭しと罵り、平常にも似ず一碗の茶も出されざるの汚辱を受けたり。然るに近年は何処とも自転車大流行にて山間にもベルの音を聞くに至り、予は帰郷する毎に此旧事を追想して笑止の感絶えざるなり、その往年予を馬鹿者と嘲りし親族共がいづれも今は自転車を買入れて揚々自得たるの一時なり。
(「滑稽新聞」第48号 明治36年5月5日より)

 この文章から当時の自転車普及状況を垣間見ることができる。明治14年頃は、大都市であっても殆ど自転車がなかったことが分かる。

 宮武外骨が乗っていた三輪車は、写真も残っていて、イギリスのシンガー三輪車であったことが分かっている。シンガーは、コベントリーの自転車工場で1879年(明治12年)に製造された三輪車である。

オランダのトムさんから送られてきたシンガー三輪車の写真


シンガー三輪車を見本に製作されたものと思われる三元車 自転車文化センター提供


明治14年2月1日付
東京横浜毎日新聞の広告
 このシンガー三輪車に今でもたいへん興味を持っている人がいる。私の知人であるオランダのトムさんがその一人である。彼は、シンガー三輪車に関するあらゆる資料を収集し、将来その複製を製作したいと考えているのである。宮武外骨が大枚を払って買ったのもうなずける気がする。そして、もう一人この三輪車に魅せられた男がいた。それは鈴木三元である。彼は、トムさんより100年以上も前にシンガー型三輪車を製作したのである。この頃、寅次郎をはじめ鈴木三元考案の営業用大型自転車の試作もおこなわれていた。
 鈴木三元は、明治14年に東京府に三元車の製造販売願を提出している。同じ年の第2回内国勧業博覧会にも自転車を出品している。

 明治14年2月1日付けの東京横浜毎日新聞にスターレー&サットン製メテオ(Meteor)三輪車の広告が載っている。横浜本町通り66番館のブラッド商会が出した広告である。はたしてこの広告によって実際に何台販売することが出来たか不明であるが、これ以降、ブラッド商会の新聞広告を見ることができないところから判断して、殆ど売れなかったのではなかったかと推測できる。値段もかなり高価であったに違いない。1884年のメテオが載っているスターレー・サットンのカタログを見ると17〜18ポンドとある。日本円で幾らで買えたのか分からないが、一般庶民にはまったく手が届かなかったはずである。
 イギリスでもこの当時の三輪車は優雅な貴族の乗り物であった。ビクトリア女王がサルボ・クワドを注文したことも知られている。その後、このサルボ・クワドは、ロイヤル・サルボと呼ばれるようになった。

メテオ三輪車が載っているスターレー・サットンのカタログ 1884年

ロイヤル・メテオ三輪車 同上カタログ

写真提供:
シマノ自転車博物館


 2004年の秋に愛媛県八幡浜市の旧家である菊池家から、古い手動式三輪自転車が現れた。現在は寄贈先であるシマノの自転車博物館が保管している。この三輪車は、江戸時代からの廻船問屋であった菊池家の倉に長い間眠っていたものである。錆は出ているものの保存状態はたいへん良く、今でも乗れるような状態である。
 この三輪車が何時頃作られたものか、何時頃輸入されたものか、あるいは日本人が製作したものか、今のところ分かっていない。
 駆動方式は、手動式であり、明治2年に登場したラントン車と形は似ている。しかし、ラントン車は手足併用の駆動方式をとっているので、これとは違う。前輪に足置きプレート(フットレスト)が付いているが、これは操舵用ではない。今は取り外されているが、ハンドル部から伸びたワイヤーがプリーを介して前輪のポストまで繋がっていた。ハンドルのグリツプ操作により、舵をとっていたものである。
 それでは、いったい何時頃のものか。私見として類推すれば、舶来ものであれば、明治元年前後、国産であれば、早くても明治15年前後が妥当と思われる。

上田城資料館所蔵の写真パネル
三輪車に乗るのは埴 亀齢
 信州の上田城にある資料館に1枚の古い写真パネルが飾られている。この写真は大きな三輪車に男性が乗っている。この男性の名は埴 亀齢(1858年〜1929年)である。この土地で医者をしていた人物である。若い頃、緒方洪庵が創設した適塾で医学を学んでいる。その後、信州に帰り、生まれ故郷で開業した。
 当時は往診に人力車を利用していたが、経費節減のため自分で乗り物を作ることを思いついたのである。そして、村の鍛冶屋と協力して一台の三輪車を製作した。残念ながら現物はすでに処分されていて無い。
 この三輪車、写真が不鮮明でよく分からないが、どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである。ただし、前輪1の後輪2で、車輪構成は八幡浜から出た三輪車に似ている。
 製作年代も分からないが、彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う。

 私は、以前この写真を見に上田城へ行ったことがある。薄暗くて写真がうまく撮れなかった。フラッシュをたくと反射して、光ってしまったことを思い出す。

  参考資料:

●「純日本式の最初の自転車」吉田 元
   『ニューサイクリング誌』 31 1967年3月号

●「宮武外骨」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”21 1985年5月15日発行

●「明治奇聞」宮武外骨著 吉野孝雄編
  河出文庫 1997.02.04