自転車の歴史探訪

 
 車輪について

 自転車の歴史を語る前に、その主要部分となる車輪について述べておきたい。車輪は主に次のような部品から組み立てられている。
 外側から、タイヤ、チューブ、スポーク、ハブなどである。
 車輪が登場する以前は、木製の橇と丸太を使ったコロ原理であったと思われる。これは、文明の発祥以前にすでに使われていたに違いない。
 車輪の歴史は古く、紀元前3,000年頃のメソポタミア文明などの発祥とともに現れたと思われる。古代に車輪が使われていた様子は、古墳などの壁画や実物の出土などで確認することができる。

 1922年から1934年にかけて発掘された古代ウルの王墓から、大小二台の車が現れた。その車は、牡牛の牽く四輪車で中実車輪と呼ばれる輻(や、スポーク)のない厚板を利用していた。この厚板は一枚ではなく三枚を接合し副え木で固定したものであった。大きい方の車は、前後の車輪の直径が約1メートルで、小さい方は前輪が60センチと後輪が80センチであった。この時代、まだ輻の付いた車輪は現れていない。スポークのついた車輪が現れるのは、紀元前2000年ごろであり、戦車の軽量化と操縦性を高めるために、丸太を切り抜いただけの重い中実車輪に変わり、軽くて機能性の優れたスポークの車輪に発展していった。

 車輪が使われていた代表的な乗り物は、戦車(チャリオット)である。古代の戦争において、戦車はよく知られている乗り物である。映画で「ベンハー」や「十戒」を見た人も多いであろう。
 当時の一般的な戦車は2頭の馬に牽かせた2人乗りであった。車輪は並列していた。

 古代中国でも戦車は重要な兵器であった。当時の争いにおいて、その兵力と優劣を戦車の数で計られていたとも言われている。
 1936年4月、河南省安陽市小屯村で三千年前の殷朝が最も栄えた都の発掘現場で、殷代の車馬坑が発見された。この殷王の戦車は、王の死とともに一緒に埋葬されたものであった。この戦車の車輪の直径は1.2メートル〜1.4メートル、輻の数は18〜26本とかなり多いのが特徴である。
 その後、1974年に陝西省で始皇帝の兵馬俑坑が発見され、さらに1994年には、河南省三門峡市の車馬坑遺跡からも木製の戦車が十数台姿を現している。これは秦の時代よりも500年以上もさかのぼり、約2800年前(西周時代)のものである。戦車は、ほぼ完全な形で発掘された。

1994年12月15日付 日本経済新聞

 日本で車輪が最初に利用されたのは、5世紀頃からではないかと言われている。2001年に発掘されて話題になった車輪は、今のところ日本最古の車輪と言われ、7世紀後半の飛鳥時代のものである。その車輪の直径は約1.1メートル、スポークが12本使われていた。当時、既にかなり高度な技術を備えていたことが分かる。
 また、時代は少し下るが、鎌倉時代の三輪車も1992年に奈良市二条大路南一丁目の土器用の粘土採取場跡から出土している。従来、三輪車の構造をもつ車は、江戸時代まではその例がなく、中世までは二輪車しかないとされていた。この三輪車は、模型のように小さく、車体の長さは40センチ、幅21センチ、車輪は前輪が一つと後輪が二つで前輪の直径は9センチであるが、後輪は失われていた。

2001年12月5日付 毎日新聞

 車輪は、当然ながら車体あるいはフレームとの組み合わせが重要な要素となる。この組み合わせによって、重い荷物や人間を運べるようになるからである。この車輪と車体の組み合わせで、いろいろな形態が現れる。車輪の数もそれぞれの用途により、取り付けられた。
 車軸との接合部分については、軽量車であれば、車軸両端の短いスタブの上で回転し、スタブを貫通しているところに「輪どめピン」を車輪が脱落しないように取り付けた。更にピンと車輪のハブとの磨耗を軽減するために、通常はこの間に座金を入れる。
 重い車では、車輪は車軸に固定され、車軸はシャーシーの下側にある軸受けの中で回転したと思われる。

 一番安定した車輪の数は、当然ながら四輪ということになる。その後に現れる馬車や自動車の発展を見れば明らかである。
 一輪では極めて不安定で、サーカスなどで利用される一輪車か、泥などを運搬する手押しの一輪車である。人間が長時間快適に一輪車を乗りこなすことは難しい。

 一輪の次は二輪ということになるが、普通に考えれば、大八車やリヤカーのような並列の配置となる。この配置であれば、横方向には当然安定するが、前後は不安定になり、車体から伸びた取っ手を両手で支えるか、馬や牛の背中に車体から伸びたフレームを固定して利用することになる。
 
 二輪の次は三輪であるが、これは四輪ほどの安定性はないが、勿論直列二輪よりは安定して走ることができる。幼児用の三輪車や現在も二輪の自転車に乗ることができない大人用の三輪車をみれば分かる。日本に最初に入った自転車もおそらく三輪車であったと思う。これから紹介する玉蘭斎貞秀画の「自輪車」やジャパン・パンチに出てくる「ラントーン」を見れば分かる。あるいは、最近話題になった江戸時代の陸舟車も車輪は三つである。三輪車の場合は、前一輪後二輪並列が一般的であるが、その逆の前二輪並列後一輪もある。車輪の大きさも前後では異なるものもある。

 四輪はもっとも安定した車輪の配置である。現代の自動車がその主流である。だが、この四輪は、重量の関係で、自転車に採用することはできない。過去に四輪車の自転車も現れたが、直ぐに消えてしまった。
 
 自転車の歴史に、広義的に三輪車などをいれる場合もあるが、本稿での自転車の歴史は直列二輪のものを自転車と定義したい。自転車の歴史の中で、この直列二輪の発明が最大のものであるからだ。自転車たる所以もそこにあると思う。



参考資料:

●「国内最古の車輪 奈良・木立古墳周濠から出土 木製、7世紀後半か?」 
  2001年12月5日付 毎日新聞

●「三輪車、鎌倉期にも 奈良で模型出土」 1992年12月18日付 朝日新聞

●「鎌倉時代の三輪車模型 奈良 木製、祭祀など儀式用か」 1992年12月18日付
  日本経済新聞

●「古代再誕 中国の発掘事情 @車馬坑の驚き」 1994年12月19日付 日本経済新聞

●「中国最古の戦車群・鉄器 西周期の巨大王墓で発掘 河南省三門峡 」
  1994年12月15日付 日本経済新聞

●叢書:技術文明を考える『車の誕生』 荒川紘著、海鳴社、1991/5