自転車の歴史探訪

 
オーディナリーによる世界一周旅行

 日本のオーディナリー自転車を語る前に、是非述べておきたいことがある。それは、自転車で世界を一周したトーマス・スティーブンスのことである。彼は、日本にも訪れ、東海道をオーディナリーでサイクリングしている。それを見た沿道の人々は驚嘆したに違いない。このことが、その後の日本における自転車の普及に多大な影響を与えたと考えているからである。静岡で閑居していた最後の将軍である徳川慶喜公もスティーブンスが横浜に向かって走る様子を眺めていた一人であった。翌年、慶喜公は、すぐにオーディナリーを注文している。勿論それは、アメリカ製のコロンビアであったはずである。全体が銀色にニッケル鍍金された、美しい自転車だ。

 私はまだ世界一周旅行をしていないが、何度も「八十日間世界一周」(Around the World in 80 Days)の映画を見ている。この映画は、1956年に上映され、最優秀作品賞をはじめ殆どのアカデミー賞を総なめした作品である。この映画の中で、従者パスパルトゥーが街中を優雅にオーディナリーに乗っているシーンがある。だがこれは自転車の歴史から見れば、少し違っている。ジュール・ヴェルヌの原作にはそのような自転車は出てこない。この小説の時代設定は1872年のことであり、まだ、オーディナリーは初期の段階で、パスパルトゥーが乗っているような最新式のオーディナリーは無かったはずである。もし、ジュール・ヴェルヌがオーディナリーに強い関心を持っていたら、オーディナリーでの世界一周を考えたかもしれない。

 私は、ジュール・ヴェルヌの冒険小説がたいへん好きで、1967年に集英社から発刊されたヴェルヌ全集全24巻を全部買い、夢中で読んだ思い出がある。挿絵にも興味があったので、わざわざ日本橋の丸善に行き、アシェット社の原書も購入したほどである。

 余談はこの辺にして、トーマス・スティーブンスの世界一周に話を戻したい。

「八十日間世界一周」の時代から15年目にして、誰も考えもしなかった大冒険を成し遂げた男が現れた。それは、アメリカの青年トーマス・スティーブンス(1854-1935)である。イギリスのハートフォードシャー州バークハムステッドで生まれた彼は、その後、1872年にアメリカに渡り、コロラドの金鉱で働いていた。その間に多数の世界旅行に関する文献などを読みあさり、自転車での世界一周旅行を思いついたのである。1884年、彼は、準備にとりかかった。自転車はコロンビア社製(Model "Expert Columbia")の黒のエナメル塗装された50インチのオーディナリーである。ニッケル鍍金をほどこされた車輪は銀色に輝いていた。

 また、余談だが、私がオハイオ州のフィンドレーで乗ったオーディナリーとメーカーもサイズも色も同じものである。ここで少しコロンビア社について述べておきたい。

 コロンビア社は、アメリカのボストンでアルバート・A・ポープ大佐の起業した会社である。博覧会でイギリスのオーディナリーの素晴らしさに魅了された大佐は、自転車の企業としての将来性にも確信をもったのである。彼は、1877年に創業を決意した。その後、事業は成功し、アメリカ最大の自転車工場に発展したのである。

 話をスティーブンスに戻す。
 彼は、長旅に必要な最小限の資材である簡易テントや衣類などを準備して、1884年4月22日にサンフランシスコのオークランドを出発した。途中、ワイオミングのララミーでは、アメリカ最大の自転車クラブであったリーグ・オブ・アメリカン・ホイールメン(League of American Wheelmen)地方支部のメンバー達の大歓迎をうけた。そして、ついに3,700マイル(約6,000km)の距離を制覇し、1884年8月4日にボストンに到着したのである。全行程に103日をついやしているが、雨天などの影響で、そのうち20日間は足止めをくっている。それを除くと実際は83日で走破したことになる。
 彼は、その後ニューヨークで冬を過ごし、その間にアメリカ大陸横断の旅行記を雑誌社にスケッチと共に寄稿している。そして彼は雑誌社の「特派員」になったのである。準備も整い、いよいよ世界一周の旅が始まることになった。

 今ではかなりの日本人が、自転車による世界一周旅行を成功させているが、非常に治安の悪いこの時代に、成し遂げたことは驚嘆すべきことである。それに、当時の最新鋭のエキスパート・コロンビアと言えども、不安定なオーディナリー型であり、現代の変速機付きの自転車に比べれば格段の相違である。
 日本人による初の自転車世界一周は、1902年(明治35年)に、中村春吉が成功させている。この時期の自転車は既にセーフティー型に変わっており、タイヤも空気入りのものが使用され、現代の自転車とあまり変わらなかった。

「Around the World on a Bicycle 」
 Thomas Stevens著 
 スティーブンスの世界一周旅行は、その後、彼自身によって「Around the World on a Bicycle」の書名で刊行されているが、邦訳は残念ながらまだされていないようである。

 スティーブンスの世界一周の旅程は次のとおりである。

 カリフォルニア州オークランド(1884年4月22日出発)・・・ボストン(1884年8月4日到着、アメリカ大陸横断成功)・・・ニューヨーク(滞在)・・・シカゴ(1885年4月9日出発)・・・リバプール・・・ロンドン・・・パリ・・・ウィーン・・・ハンガリー・・・スロバニア・・・セルビア・・・ブルガリア・・・東ルメリア・・・コンスタンティノープル・・・トルコ・・・アナトリア・・・アルメニア・・・クルド・・・イラク・・・ペルシャ・・・アフガニスタン・・・カスピ海・・・コンスタンティノープル・・・カルカッタ・・・香港・・・長崎(1886年11月)・・・横浜(1886年12月17日到着)・・・サンフランシスコ(1887年1月到着)

 実際の旅程距離は、約13,500マイル(約21,000km)であった。

 この旅程の中にコンスタンティノープルに2度立ち寄っているが、これはスパイ容疑でアフガニスタンに入国できなかったためである。

 当時の日本の新聞に載ったスティーブンス関連の記事は次の通り、

1886年7月19日付け「時事新報」、
 米国人トーマス・スチィーブンスは、二輪の自転車にてサンフランシスコとニューヨークの間を旅行した後、アウチング雑誌の特別通信者となって世界一周を思い立ち、昨年4月にニューヨークを出帆して英国に上陸し、英国を自転車にて横切り、それより汽船に乗ってフランス国に到着し、さらに自転車にてフランス、ゲルマン、オーストリア、トルコ、ロシアを旅行し、テヘランよりメシート(ペルシャの都府)に行かんとするにあたり、露国政府に出願して、北京に達するまでのロシア領旅行免許を得、その旅費に当てんとて、露国の通貨までも買入れ旅行をなしたるが、ペルシャの国境に至り突然露国官吏に捕らえられ、露領を旅行すべからざる旨を言い渡されたれば、やむを得ずアフガニスタン国を経過せざるを得ざる事となりたるが、アフガン人は他国人民よりも外国人を嫌悪することはなはだしければ、旅行中には、種々の困難に出会い足るよし。同氏は年齢22歳にして、すこぶる勇敢なる人なるが、旅行中は外套の裏に入れ得べきだけのもののほかは、何たる荷物も携えざりしと、米国新聞に見ゆ。

1886年12月1日付け「大阪朝日新聞」、
 スチヴェンス氏
 二輪車にて世界周遊中なる有名のトーマス、スチヴェンス氏は去る二十三日陸路長崎を発して横浜に向ひたるよし昨日の兵庫ニウスに見えしが氏は英国ハーウォトシア洲グレート、パークハムステッドの産にして一昨年の四月直径五十英寸の二輪車に駕し程を米国桑港より起して波士頓府に出で同府より海路英国リヴァプールに航し夫より倫敦を経て巴黎に遊び同府より又欧州諸国を経過しつひで小亜細亜を経て印度に入りカルカッタより海路香港に航し広東より長江沿岸なる九江に出で夫より汽船にて去る十六日上海に着し同二十日抜錨の横浜丸に搭じて長崎に着したる者なりと又同氏の年齢は三十許なるよし

1886年12月4日付け「時事新報」、
 兼ねて本紙に記せし自転車にて世界一周を企てたる米国人スチーブンス氏は、去月21日横浜丸便にて長崎に着し、23日同地を出立して陸地を例の自転車にて神戸を経て横浜に来り、同港より米国に帰航する由なるが、同氏は年28、9の人にして、昨年4月にニューヨークを出立して英国に渡り、それよりパリ、ウイーン等を経て土京コンスタンチノーブルに出で、欧州にて時日を消費すること2ヶ月、同年8月10日欧州を出立して、彼の名所旧跡に富み旅人に取りいとも愉快なる小アジアを周遊し、それよりペルシャに入り、首府テヘランにて冬を送り本年の春に至りアフガニスタン、インドを経て支那に入らんとしたるに、アフガニスタン人は氏の周遊を何か政治上の目的よりいづるものなるべしと疑い、氏が種々陳弁して政治上の目的に出るに非ず、純然たる漫遊なりと説明するをも信ぜず、体よく謝絶してペルシャ国境へ帰らしめたれば、氏は止むを得ずそれより後戻りてカスピ海に出で、これよりコーカサスの鉄道にて再びコンスタンチノーブルに行き、今度は汽船にてインド・カルカッタを経て支那の広東に達したるなり、されば僅かに陸地の300マイルを通行する能はざるがため、終わりに海上6000マイルを航せざるを得ざるに至れり。

1886年12月9日付け「大阪朝日新聞」、
 ステヴェンス氏着神す
 夫の二輪車に駕して世界を周遊中なる有名のステヴェンス氏が上海より長崎へ来航し去月二十三日横浜に向け陸路同地を出発せしよしは過日の紙上に記載せしが氏は日数十五日を累ねて一昨日午後神戸に着し兵庫ホテルに投宿せしが両三日京坂の勝地を遊覧の上尚又程を継ぎ陸路横浜に向ふと云う

1886年12月10日付け「大阪朝日新聞」、
 ステヴェンス氏発程す
 去る七日に神戸に着したる夫の自転車にて世界周遊中なる有名のステヴェン氏は昨朝汽車にて当地に来り直ちに程を起こし例の二輪車に駕して東海道を横浜へ向ひたり同氏の世界周遊中是迄経歴したる所の状況及び長崎より神戸に着したる迄の沿道の光景等に付同氏の直話に伝聞せし所あれども本日は余白に乏しければ次号に譲る

1886年12月11日付け「大阪朝日新聞」、
 世界周遊者の直話
 去る七日神戸に着し一昨九東上の途に就きたる夫の自転車にて世界周遊中なる英人スチヴェン氏が一昨年四月北米桑港を発程せし以来去月下旬清国を経て長崎へ着したる迄の順路の概略は此程の紙上に記載せしが今尚同氏の直話なりとて伝聞する所に拠れば桑港を発して波士頓に出て同港より英国リヴァプールに渡航し夫より欧州諸国を経て君士坦丁堡に着したる迄の間には別に著しき珍談奇事とてもなかりし由なれども昨年八月十日君士坦丁堡を発して小亜細亜に入りし後は風俗人情全く一変せしかば困難を感せし事少なからざりしにも拘はらず氏の濠邁なる嚮導も伴れず食料もを携へずして此未開の異境に入り到る處土人の懇切なる待遇を受けて終に波耳西亞の首府テヘランに出で暫く同府に足を停めて厳寒を凌ぎ滞在中国王の優待を受け夫よりテヘランを発し路を土耳基士坦に取り清国北京に到るの心算にてシャールード迄赴くと同處にて魯国士官の通行を禁止するに遭ひ止むを得ずメセット迄引返し同處より更に途を転じ亞富汗士坦を経て印度に入る事に改め其方針に向かひたるも是亦少許進むと間もなく亞富汗の酋長に抑制せられて波耳西亞界迄護送せられたれば余儀なく再びカスピ海に出で鉄道に搭じて君士坦丁堡に引戻し同府より汽船便にて六千英里の波濤を渡りて印度のカーラチーに着し同處より陸路カルカッタに出でカルカッタより又汽船にて香港に渡航し同港より広東に出で同府より陸路北京に到るの胸算にて先月十三日程を起こしたりしも道路狭隘険悪なる為め自転車を用るの地至て稀にて多くは川船にて上り八日目に広西省に入り夫より行くこと数日にしてカンチョー府と云るに達したる迄は不便ながらも指たる異條なかりしが同府にて土人等の取囲みて石を擲つなど頗る乱暴に遭ひ終に府の衛門に送られて懇々内地旅行の危険なる状を説き進行を止められたると道路に自転車を用ひ得べき望なきとに依て志那の旅行は是にて断念し直に九江に出で同口より汽船に搭じ長江を下りて上海に着し去月二十日薩摩丸便にて長崎に着したるなりと偖又先月二十三日長崎を発して以来の行程は先づ長崎より大村に到るの間は坂路多きを以て其夜は大村迄行きて一泊し夫より日々雨中或は雨後にて自然輪の旋転重くして兎角に程捗らず漸く二十八日の正午に馬関に着せしが折柄降雨烈しく少しの小やみさへあらざりしかば其夜は同處に滞在し翌日午後馬関を発して中国路を取り三十日の朝広島に着し同地には足を停めずして直に程に上り本月四日正午頃岡山に着し六日の朝迄同地に滞在し同日同地を発して其夜姫路に着し翌七日の朝八時姫路を発し同日の正午神戸に着したるものなりと然るに同氏の評に長崎より神戸に到るの間にて最も自転車に適したる道路は岡山以東神戸迄の間なりと云ひ且一体に道路の修繕の届き居るには感服し居れる体なりしが独り道路のみならず氏は志那の内地の光景を目撃して日本も大同小異なるべしとの想像を下し居たるに山川の風致より人智の度合に至る迄目に触るヽ者として悉く志那と雲泥の相違にて殊に人民の清潔を好み外国人に接して親切なる事等には最も驚嘆し居り実に意外の事なりと物語りしよしなり又氏が斯く世界中を周遊するは山川の勝を愛するにも将た見聞を拡る為めにもあらずして専ら二輪車に駕するの巧みなる事を世界に表揚せんが為めにして而して此旅行の費用は何處より出るかと云ふに氏は米国の一新聞の社員にして旅行中各地より通信を送り其社より受る所の報酬金を以て支辨する者なりとの説なり

1886年12月23日付け「大阪朝日新聞」、
 東京通信(十二月十九日発)
 有名なる自転車の周遊客ステヴェン氏は一昨日午前横浜に着しクラブ、ホテルに投宿せり

 これらの新聞記事を見ても、当時スチィーブンスのニュースが大変話題になっていたことが分かる。しかし、今まで日本の自転車史では余り紹介されることはなかった。この辺で、改めて彼の業績を再評価する必要がある。
 彼が日本人に与えた影響は大きかったと思う。東海道を走る彼の姿を好奇と驚嘆の目で見た日本人は非常に多かったはずである。  

  参考資料:

●「Around the World on a Bicycle 」Thomas Stevens著 2004-02-01

●「トーマス・スチィーブンスの自転車世界一周」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”71 1993年7月15日発行