自転車の歴史探訪

 
オーディナリーに乗った最後の将軍

 明治維新の後、十五代将軍徳川慶喜(1837-1913)は静岡県紺屋町の元代官屋敷(現、浮月楼)で閑居していた。この地には明治2年から明治21年まで過ごしている。
 彼は既に謹慎を解かれ、自由の身になっていた。三十代の若さで隠居した彼は宗家からの仕送りで、経済的にも何不自由なく暮らしていたのである。
 新しいものが好きで、カメラ、猟銃、油絵、自転車などたいへん多趣味であった。その中でも、特に一時は自転車に熱狂し、当時まだ珍しかったこの時期に従者を連れ、毎日のように自転車を乗り回した。
 其の自転車はニッケル鍍金された眩いばかりの舶来製オーディナリーであった。派手好みの将軍にはピッタリの自転車だ。ただ残念なことに写真好きでもあった将軍は、その自転車に乗る雄姿を従者に撮らしていない。
 私は、その自転車は、たぶんアメリカで作られたオーディナリーであったと思う。それは、1年前に東海道を行く、トーマス・スティーブンスを好奇の目で見たに違いないからである。コロンビア製のニッケル鍍金された美しいオーディナリーであった筈だ。

 自転車を購入したことが静岡大務新聞(明治20年2月5日付)に残っている。
 それから「家扶日記」には、次のような興味深い記述もある。
 明治20年2月、御家従4人へ度々自転車御供有之候に付 靴之料3円ずつ下され候事

 毎日のように彼にお供をした従者に靴代として3円与えていることである。彼は従者の靴が痛むほど、毎日静岡市内を乗り回したことがこの日記で分かる。
 「家扶日記」は幕末から明治維新後も慶喜の側近くにいた新村猛雄、梅沢守義らが交代で書いた当番日誌である。

 また、当時同じ静岡にいた松本亀次郎(1866-1945)もこのことを目撃している。松本亀次郎は、中国人留学生への日本語教育に取り組み、魯迅や周恩来らに日本語を教えたことで知られている。
 彼が書いた日記に次のようある。(亀次郎もこの頃は自転車に興味をもち、貸し自転車に乗っている)
 明治20年1月13日快晴。午後2時散歩の際、徳川将軍及び二公子が自転車を召されて市中御散歩を相見たり。

 ここに出てくる二公子とは、徳川家達と昭武の兄弟である。
 徳川昭武(1853-1910)も自転車は好きであったと伝えられている。  

 さらに次のような失敗談も伝わっている。
 だるま自転車は、前輪が大きいためたいへん乗りづらく、浮月楼の北側に流れていた小川に自転車もろとも 落ちてしまったり、練習中に商店の軒先に突っ込んだりしている。この時は「ごめんなさい」と慶喜公が素直に平民に向かって頭を下げたと云う。しかし、旧幕臣には冷たかったようで、開拓農民として困苦していた旧幕臣たちの目の前を人力車や自転車で悠々と走りさり「貴人、情を知らず」と嘆息をつかせたとも伝えられている。

 どちらも言い伝えなので真意のほどは定かではないが、平民に頭を下げたと言うのは話を美化しているようで疑問である。恐らく従者が謝ったに違いない。練習中のミスは当然あったと思う。今でもオーディナリーを乗りこなすのは大変である。目に浮かぶようである。
 しかし、その後上達し、静岡から清水まで遠乗り(サイクリング)をしたようである。

 その後、このオーディナリーがどうなったかは分からない。大正の中頃まで二丁目の初音楼の引付の間の置物として飾ってあったとも伝えられている。
 最後の将軍が乗った自転車であるから粗末にすることは出来なかったはずである。ことによると何処かにまだ在るかもしれない。

  参考資料:

●「徳川慶喜とそれからの一族」佐藤朝泰著 立風書房 1998年8月15日発行

●「日中教育のかけ橋 松本亀次郎伝」
 平野日出雄、静岡県出版文化会/静岡教育出版社/1982年

●「静岡市伝馬町誌」漆畑彌一著 静岡市伝馬町報徳社 昭和52年11月15日発行