自転車の歴史探訪

 
鉄砲鍛冶とダルマ自転車

 1988年9月15日付けの産経新聞に「国友鉄砲かじ師が自転車作り」とあるのが目にとまった。この自転車は静岡県の旧家で発見されたもので、特に次の点が重要な部分と思われた。

 製造年とその製造場所が自転車のフレームに刻印されていたことである。そのフレームの一部には、次のように書かれていた「明治24卯年四月上旬国友作之」。国友は現在の滋賀県長浜市国友町である。国友村は、1543年のポルトガル人による鉄砲伝来の後,その製造技術が国友村にも伝えられ,戦国時代末,織田信長らの諸大名の需要に応じて,堺とともに鉄砲製造で繁栄した地域である。江戸時代に入り、1817年に鍛冶職総代となった国友藤兵衛〔1778-1840〕は一貫斎と号し,科学者としてもすぐれ,空気銃や反射望遠鏡を製作したことも伝えられている。

1988年9月15日付け産経新聞

 この自転車の前輪は、1.05メートル、後輪は0.48メートルである。サドルまでの高さは、1.15メートルと、それ程大きなものではない。車輪は木製で、タイヤは鉄帯である。前輪には泥除けも付けられており、ほぼ完全な形で発見されたのである。自転車を作った最初の日本人の職人は、鉄の加工技術を習得していた鉄砲鍛冶職人と推定されていたが、これはそれを裏付ける重要な発見として注目された。

 宮田自転車の宮田英助も元はこの鉄砲鍛冶職人であった。

 この国友の自転車は現在東京の江戸東京博物館に展示されていて、我々はそれをいつでも見ることができる。

 ここで少し鉄砲鍛冶について考えたいと思う。先ほども述べたが「自転車を作った最初の日本人の職人は、鉄の加工技術を習得していた鉄砲鍛冶職人と推定されていた」とあるが、既に見てきたように、別に鉄砲鍛冶でなくとも、木製の自転車であれば、多少の技術があれば、それほど難しいものではなかった。

 明治3年に登場した竹内寅次郎も元彫刻職人であり、鈴木三元も鉄砲鍛冶ではない。木製のダルマ自転車であれば、車大工や人力車製造人あるいは、普通の鍛冶屋でも製作できたはずである。フレームの金属パイプやスポーク、チェーンなどのような高度な金属加工技術を必要とする部品は、例え鉄砲鍛冶でも作ることは出来ない。鉄砲の技術と近代産業である自転車の製造技術とはまったく別物であり、鉄という名称は同じかもしれないが、鋼鉄と鉄は組成も製造技術の方法もまったく違うのである。

 それから、鉄砲伝来の話も1543年の種子島から始まったとされているが、本当にそうなのであろうか。根拠になっている資料は50年以上も後に書かれた「鐵炮記」(1606年)である。なんとも心もとない話である。

 鉄砲鍛冶の技術を低く見る必要もないが、近代的な自転車製造技術には殆ど役に立たなかったと思われる。木製のダルマ自転車を製造する段階では、十分な技術であったことは確かである。