自転車の歴史探訪

 
自転車倶楽部の始まり

   我が国で最初の自転車倶楽部は、明治26年発足した”日本輪友会”だと言われている。
 しかし、明治19年には既に帝国大学の広田理太郎、和田義睦、同理科大学の田中館愛橘、沢井廉の四名が自転車会を設立し活動していた。確かに組織の規模とか内容などを比べると、帝大の方はむしろクラブと言うよりも同好のグループに近い形態であったと思う。メンバーも4人で自転車も木製のダルマが1台あったにすぎない。メンバーの一人、田中館は、後年に次のように語っている。

 「この頃の自転車は、足踏みの回転を鎖引で拡大するような構造のないもので、前輪は大きく後輪は小さくて、之に乗ると一時馬に乗ったようなものであった。この会は一台の自転車を買う資金を出し合って之を購入し、大学中を乗り回して運動の一種としたものである。ゴムタイヤなどは大の贅沢もので、我々の買い入れたのは無論鉄輪の頑強なものであった。」

 それから見れば日本輪友会は、名実ともに組織も内容も充実していた。やはりこれが日本最初の自転車倶楽部なのである。
 当時の会員の一人であった石川 信氏は次のように倶楽部発足時の模様を回顧している。

 自転車の著しき発達に伴れて此節は都会は申すに及ばず各地至る所に自転車の団体が設けられない所はない位で、東京市中だけでも挙げて教えたら十有余の団体が設立されて居りましょうから、日本全国では実に百数十余殊によったらニ百以上の団体があるかも知れませんが、此自転車団体の中で最も古きものは何という団体であるかと云うと、恐らくは私共が発起となって組織した日本輪友会というのが、最も魁けて設けられたものだろうと思います。丁度私共が日本輪友会というのを組織したのは明治26年の5月のことで、その当時はまだ当今のように自転車の乗り手も少なく、又車も彼のダルマ形という車が大部を占めて居って、あとは木製の二輪車と三輪車・・・・此の節名古屋あたりで電信配達夫が乗って居りますような車の外は、今の空気入り安全車という自転車は実に東京市中でも10台とは無かった位でありました。今から考えてみればその頃は今日流行の安全自転車の極く来たての時分であったと思われます。話しが少し横道に入りますが、私は性来自転車のような種類のものが大好きでありますから、木製の自転車輸入されてかの秋葉の原に初めて貸し自転車屋が出来た時分から好んで乗りまして、それからダルマ形の自転車にも乗って歩きましたが、どうもダルマ形というのは御承知の通り何しろ前輪が極めて大きいのに、後輪は又極めて小さいので少し体が前にかかると後輪が跳ねるので危険で堪らないのです。するとその頃福沢捨次郎氏が今日流行のような自転車に乗って居られまして、成るほどこれならば安全であるからそう云う車を買入れたいと思いましたが、何しろ東京市中にも何処にもそう云う自転車を売っている所がない。そこでその当時私は時事新報社に居りましたので、同好の坂田 實氏と相談しまして同氏も是非一台欲しいと云われるので、同氏の分と併せて二台を福沢捨次郎氏に願いまして、福沢氏から又当時英国のロンドンに居られました青岡邦之助氏に依頼されまして、英国のジュノーと云う会社へ注文してクリンチャータイヤの自転車を二台造らせました。丁度この注文をしましたのは明治25年11月のことで、それから其翌年の3月になって正金銀行へ自転車の代価を逆為替に組んで来たので金を払込みますと、4月の16日に車が出来て参って受取りました。代価は1台112円50銭ずつで海関税を3円取られたことを記憶して居ります。
 それで其頃の自転車乗りとして有名な人々は、岩崎久弥、森村明六、森村開作、荘田平五郎、豊川良平、松方正作、樫村清徳、福沢桃介、福沢捨次郎、伊東茂右衛門、加藤木重教、原 六郎、高田槙蔵、それから印刷局に居られた左近 允、参謀本部の中島大尉等の諸氏でありまして・・・・
 今から考えますと人数の少ない割には何れも有名な人々が乗って居られました。それで私共同好の者が寄り寄り相談しまして、一つ自転車乗の団体を拵えようじゃないかと云うので前にお話した26年の5月になって、いよいよ会を結ぶことになって日本輪友会というのを設定しました。
 其時に発起者として名を連ねた人々の氏名を挙げますと、
 樫村清徳 岩崎久弥 豊川良平 坂田 實 益田英次 木村久寿弥太
 福沢捨次郎 石川 信 佐武保太郎 日比翁助 鎌田栄吉 伊東茂右衛門
 長谷川芳之助 朝吹英二 福沢桃介 荘田平五郎 和田義睦 酒井良明
 松方正作 森村明六 森村開作 中島(大尉) 田野 某
 等の諸氏でありまして、これらの諸氏の中で今日も尚自転車に乗って居る人は極僅かでありましょうが、実に始めは上流の人々の娯楽用に止まって居ったものと云っても宜しいのです。今日の自転車団体の事務所は何れも自転車店かさもなくば其会の主だった人々の家に置かれてあって、至って手軽く行われて居りますが、私共が日本輪友会を設立した時は何れにしろ極めて初めで能く様子も分かりませんし、それに之を一つの倶楽部にしようと思ったものですから、京橋の三十間堀に一軒屋を借りまして此処に相当の器具を備えますし、小使も雇って置きまして至って大袈裟な仕掛けにやったもので御座います。
 それから『自転車』という機関雑誌を作りまして、たしか此れは5号まで出して廃刊したと思って居りますが、何しろそう云う風で盛んに会員も募りましたし又雑誌の上では欧米の自転車界の事跡も調べて報道しまして、大いに斯の道を奨励したので御座います。
 此雑誌は私も保存して置いたのですが只今一寸見えなくしました、多分慶応義塾の福沢さんの所には保存して有られるだろうと考えます。それから能く遠乗会も催しまして5、6里の所へは毎度出掛けましたが、其当時は今日の百分の一も乗り手は無いので至る所で自転車乗りが行くと珍しがりまして、なかなか面白い話の種を作りました。
 その中で覚えて居ります事を一つ二つあとでまた話ましょうが、斯う云う風で出来た此会が自転車団体の最も古いもので、それから帝国輪友会とか、大日本双輪倶楽部とか、東京バイシクル倶楽部とか云うのが出来て、遂に今日の如く全国至る所に種々な自転車の団体が結ばれたので御座います。

 以上は『輪友』第17号、明治36年3月10日発行の記事である。

 日本輪友会の設立については、当時の新聞にも次のように出ている。

 日本輪友会 同会は自転車に関する諸般の研究を主とし、併せて同好者間の楽しみをともにせんとする一つの倶楽部にして、当分京橋区南鍋町二丁目十二番地も交詢社内に事務所を置けり。
 創立の趣旨は、自転車実用の道を啓かんとするに在りて、大いに会員を募集し、雑誌を発兌して一般会員に配布し、また会員の好みに応ずる外国製の車種及び附属品などを購求するの便益を謀り、併せて社交上に一新面を開かんとする見込みなるを以て、会員二名紹介さえあれば、自由に会員たることを得べしという。(明治26年7月11日付 朝野新聞) 

 また、機関誌『自転車』の発行についても、明治27年2月23日付けの東京朝日新聞に次のようにある。

 自転車と題する雑誌出づ昨今同車の流行に連れ之に乗る人の機関となるを任ずるもの発行所は京橋区南鍋町二丁目十二番地交詢社内日本輪友会

 この雑誌については現在のところ未見である。5号まで発行したとあるが、どの様な内容か興味深い。
 慶応義塾大学の図書館あたりに所蔵されているのであろうか。

 日本輪友会につづく自転車倶楽部は、その後、全国各地に発生し、サイクリング熱が盛んになった。また、自転車の競争会も各地で開催されるようになり、自転車倶楽部は更に発展していったのである。

  参考資料:

●「日本輪友会について(その1)」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”69 1993年3月15日発行

●「日本輪友会について(その2)」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”70 1993年5月15日発行