自転車の歴史探訪

 
明治期東京の自転車倶楽部事情

   明治26年に発足した日本輪友会の後に設立された自転車倶楽部には、次のようなものがある。

 ★大日本双輪倶楽部
 ニ六新報社長の秋山定輔が中心になり発足した倶楽部で、明治28年に12、13人の有志が集まり組織された。
 上野・不忍池で開催された自転車競走会はこの倶楽部が主催した。
 明治30年頃には50〜60人の会員数を擁する大きな組織になった。
 主なメンバーを挙げると、秋山定輔、那珂道世、鶴田勝三、小林作太郎、岩谷松平、小柳津要太、室町公大伯爵、奥平昌恭伯爵などがいた。

 ★帝国輪友会
 東京の江東方面で活躍した倶楽部で、大日本双輪倶楽部についで結成されたもの。当初は江東輪友会と称していたが、後に帝国輪友会と改称した。
 深川の東町に土地を借り、4周1マイルのグランドを設け、年に2回、春と秋に競走会を盛大に実施していた。
 会員には、材木商、油商、呉服商、金物商、硝子商といった商人が多かった。明治33年頃の会員数は70〜80人位であった。

 ★東京バイシクル倶楽部
 レースを主体とる倶楽部で、明治32年春に結成された。
 上野・不忍池で春・秋に2回レースを開催していた。
 優秀な選手を多数かかえていて、明治30年代には自転車競走会の覇者を輩出したことで知られている。

 ★金輪倶楽部
 明治34年頃に、もと横浜の石川商会に勤めていた松浦精三郎が中心となり結成した倶楽部である。
 この倶楽部と東京バイシクル倶楽部が当時ライバルとして張り合っていた。
 当時の花形選手であった毛利 正、小宮山長造も、この倶楽部に所属していた。

 ★銀輪倶楽部
 銀座の”天狗たばこ”で有名な、岩谷松平商店や尾張屋釦店、柴田洋服店、島田洋紙店、近藤商事、睦屋などの子弟により、結成された倶楽部である。
 後に、東京バイシクル倶楽部に吸収され、この名前は消えている。

 ★共睦神輪倶楽部
 神田周辺の気の合った仲間が集まり結成された会員数20名程の倶楽部である。
 主に親睦を旨とし競走よりもサイクリングを楽しんでいた。
 神保町の病院長が筆頭幹事で、上総や房州方面を一周したり、遠距離では三河の豊川稲荷あたりまで遠乗りしている。

 ★魁輪倶楽部
 牛込、四谷周辺の愛好家が結成した倶楽部である。競走会を主体としていたが、自前のグランドは持っていなかった。東京の山の手や郊外の畑地など適当な地形の場所を選んで、練習や競走をしていた。

 ★勇輪義会
 この会は、競走会を目的としたものではなく、軍人が中心となり自転車報国会のような組織であった。
 国家に一大事あらば自転車をもって国にご奉公することを目的として明治34年に結成された。
 当時この会に共鳴する人達が全国的に居て、盛岡、仙台、福島、水戸、土浦、結城、鹿沼、横浜、徳島など各地に支部がつくられ、会員数は400名を超えていた。
 この組織を創設したのは、陸軍大尉の梅津元晴、東宮和歌丸、佐藤半山である。
 会長には、海軍少将の新井有貫が就任し、副会長には陸軍戸山学校の鵜沢総司少佐が就いた。
 会員はすべて、制服、制帽、徽章を着用することになっていた。これらは、当時の陸軍士官と殆ど同じスタイルであった。
 日露戦争が始まると各地の会員は、軍の召集令状の伝達のため自転車で走り回り、町村役場に奉仕したのである。

 ★三田輪友倶楽部
 慶応義塾の学生が組織した倶楽部である。勇輪義会同様、自転車による軍事教練などを主な活動としていた。
 梅津大尉も、その指導に当たっていた。
 明治35年頃、川越で軍事演習が行われとき、旧川越藩主であった松井康義子爵や旧藩士らにより歓迎会も行われた。当時慶応の塾長であった鎌田栄吉も臨席して、挨拶を述べている。

 ★桜輪倶楽部
 明治座の役者が組織した倶楽部である。
 発起人の一人である河原崎権之助は「役者はとにかく柔軟に流れやすい。これからの役者は体育に意をそそぐことが必要だ。自転車は郊外へ出て新鮮な空気を吸入するのに妙を得たものである。この見地から倶楽部をつくった」という。
 歌舞伎俳優の市川左団次も共鳴者であった。

 ★学校輪士会
 東京帝国大学、高等学校、学習院、専門学校の大学教授を中心に教師や学生の愛輪家が組織した倶楽部である。
 幹事は、帝大教授の田中館愛橘、高等工業大学教授の松浦和平、学習院教授の吉田 栄などである。大日本双輪倶楽部の那珂道世博士も関係していた。
 遠乗会を毎月1回開催し、多い時には30人以上の参加者があった。日曜日に気の合った数人で、各地へ行楽に出かけた。特に理学博士の箕作佳吉はこれを好んだと伝えられている。

 ★杏林倶楽部
 赤坂、日本橋、神田あたりの医師を中心に組織された倶楽部である。
 毎月、遠乗会を実施していた。

 ★東京輪士会
 この会の発足は遅く、明治39年頃であった。
 結成後は直ちに頭角を現し、競走会で活躍する会員が多く輩出した。
 自転車選手ならこの会主催の10マイル競走に入賞しなければ、一流選手と呼ばれなかった。1回でもこのレースで入賞すれば全国何処へ行っても、優秀な選手として認められた。それほど権威があったのである。
 会の発起者は、石川商会、宮田製作所、スイフト商会などの輪業関係者10数人であった。
 創立後は、上野・不忍池畔で大競走会を催し、それ以降も毎年春と秋に実施していた。不忍池畔が使用できなくなった後は、日比谷公園で実施したが、ここもまもなく利用できなくなり、それ以降は北千住の荒川堤のそばに土地を借り、常設のグランドを設けたり、羽田の穴守稲荷社裏手の埋立地や本所被服廠跡地などを利用して競走会を続けていた。
 競走会場の確保に苦労したことが伺える。

 ★りんりん会
 明治34年に大日本双輪倶楽部にも関係していた奥田昌恭子爵が会長になり組織された倶楽部である。会員数は20名程度。
 遠乗会が主な行事であった。競走会へも出かけたが、競技へ参加したのではなく、応援のためにサイクリングをかねて出かけたようである。

 ★愛輪倶楽部
 芝の三田にあった倶楽部で、会員数は20〜30名であった。曲乗り名人の小林作太郎も会員の一人になっていた。

女子嗜輪会の発会式での記念写真
中央が17歳の三浦 環
自転車はカナダ製の婦人用アバンホー
写真提供:自転車文化センター
 ★女子嗜輪会
 明治33年11月25日に誕生した日本で始めての女性だけの倶楽部である。
 仕掛人は京橋で米国製ピアス自転車の代理店四七商会を経営していた、東宮和歌丸である。きっかけは彼の細君が自転車の稽古をはじめたことが発端のようである。
 発起人は東宮いと子、その妹のとり子とふく子、朝夷たけ子、寺沢まさ子、田中きの子、柴田 環(のちの三浦 環)などである。
 この女子嗜輪会の登場により女性の自転車熱も高まっていった。ところが、次のような根拠の無い風説も一時ささやかれた。
 「女性が自転車に乗るのは衛生上有害で、妊娠を妨げる」というのである。  しかし、これについては東京帝国大学の入澤達吉博士によりまもなく否定された。実は入澤教授の夫人も女子嗜輪会のメンバーの一人であった。
 その後、女子嗜輪会は女子教育の大家であった下田歌子女史を会長に戴き、九段牛ヶ淵の日本体育館を練習場にあて、毎月2、3回の練習日を定め、乗輪を希望する女子を練習をさせた。
 やがて芸妓の中からも自転車に乗るものが現れた。下谷・数奇屋町の中川家の栄や梅本のうめ子の両名である。栄は後に市川左団次の妻になっている。

  参考資料:

●「佐藤半山の遺稿 輪界追憶録抄 明治中期の自転車事情」高橋 達
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”66〜70