自転車の歴史探訪

 
軍隊での採用

   あらゆる発明品がそうであるように、それが軍事的に或いは兵器として役にたつものか最初に試される。自転車も当然例外ではなかった。明治29年発行の「自転車術」に、

 「本邦においても近年『輪』を軍事上に使用することを試み、憲兵隊においては既に専らこれを使用せり。明治23年の頃特別大演習の時輪術熱心の中尉中島某は、片鎖安全、其の他二種を持ち行き、野戦演習地において十分の試験を為したるに、三種中片鎖安全第一の好結果を得たりと云う」

 ここで、『輪』とはサイクルで自転車のこと、片鎖安全とは、当時最新式のチェーン付安全車のことである。「明治23年の頃特別大演習」とあるが、これは誤りで、大演習は明治25年10月に実施されている。

 1892年(明治25年)7月28日 郵便報知に、
  憲兵隊で馬の代わりに自転車を使用
 憲兵司令部に於いては、乗馬に換えて自転車を用いることに決し、本年春以来もっぱら練習せしめ居りしが、この頃大阪、名古屋、広島、仙台、熊本の各憲兵隊へ練習用三台、上等自転車二台、都合五台を配布し、目下各隊とも練習中なりと云う。ちなみに記す。熊本、広島の両憲兵隊に於いては、本年度補欠員募集のため、各所在地師団兵卒より試験の上採用するはずなり。

 軍の組織で最初に採用したのはどうやら憲兵隊のようである。練習用三台とあるが、恐らくこれは国産木製のダルマ型であったはずである。上等自転車二台は、舶来製で恐らく米国の安全車と思われる。理由は、次の梶野自転車製造所の新聞広告に憲兵隊御用とあり、アメリカ製のビクター号の挿絵が載っているからである。ビクター号は、1887年(明治20年)にオバーマン・ホイール株式会社(マサチューセッツ州チコピーフォールス)が製造した自転車で、英国のローバーをベースに独特なスプリング・フォークを取り付けた特徴ある自転車であった。明治22年にアメリカ留学を終えた福沢桃介がビクター号を携えて、帰朝したと伝えられている。その他、和田義睦なども乗っていた。

 明治25年9月11日付けの時事新報
  梶野形安全自転車広告として、
  内閣会計課用度掛、東京憲兵隊指令部、宮城憲兵隊本部、愛知憲兵隊本部、広島憲兵隊本部、熊本憲兵隊本部、東京郵便電信局、東京安田銀行御用
 自転車製造所 横浜高島町五 梶野仁之助

 自転車製造所とあるが、恐らくこの頃の梶野はまだ輸入車の販売と組立てや修理が主な業務内容であったと思う。自家製造であるならば、わざわざビクターの挿絵を広告に載せないはずである。

明治25年 宇都宮で実施された陸軍特別大演習での 伝令 「日本の歴史」別巻4、中央公論社、昭和42年発行
 明治25年10月23日付けの『時事新報』に、軍用自転車の試験として、次のようにある。

 軍用自転車は既に外国にて伝令上欠く可らざるものとして採用せられ居るも我国にては陸軍歩兵中尉中島廉直氏数年間海外に留学中種々研究を為し之を我国においても適用せんと欲し帰朝後は種々苦心の末自宅内に一つの鍛冶場を設け同氏自ら作業し壱個の新式自転車を発明せしが今度の演習地は概して平坦の土地なれば日頃の希望を試験する好機会なりとて左の三輪の自転車を持来れり

一 単二輪車(目下欧米諸国に行はるる式)

一 片鎖安全車(同中尉の発明せしもの)

一 単安全車(仏国軍用式)

 以上の三車中単二輪車の中径は四尺六寸片鎖安全車は三尺七寸単安全車は二尺六寸にして速力は平坦なる道路なれば一時間四里の距離を走り十時間乗詰めらるるも宇都宮付近は於泥地多きを以って予定の速力までに至らざるべしと其結果を奏するみともあらば近頃軍事通信上の一進歩と謂うべきなり

 ここで言う単二輪車とはオーディナリー型の自転車である。この時使用されたオーディナリー型自転車の写真とイラストが残っている。同中尉が発明したという片鎖安全車はどのような自転車か分からないが、一般的な安全車に一部改良を加えたものであろうか。