自転車の歴史探訪

 
梶野仁之助

 昭和58年、縁者にあたる横浜市在住の松本春之輔氏から梶野仁之助に関する資料の提供と思い出話を伺うことが出来た。
 その資料の中に、昭和8年6月4日に便箋に書き記された短い伝記「本邦自転車界の恩人 梶野仁之助」があった。内容の正確性や史実性に疑問の部分もあるが、彼の来歴を知ることができる貴重な資料であることには違いない。
 伝記のあらすじは次のとおりである。

 梶野仁之助は、安政3年3月25日に神奈川県津久井郡太井村に生まれた。8歳のときに父親を亡くし、その後、親戚の同じ村に住む梶野敬三方に引き取られた。丁稚見習いとして同家の家業である醤油醸造業に従事することになったのである。少し伝説めいた話であるが、はやくも好奇心旺盛な彼は、15歳になった明治4年に醤油樽の木片を利用して、木製の自転車を作ったと伝えられている。
 その後、敬三方には6年暮らしていたが、都会に出たいという思いがつのり、21歳の時に故郷を離れて独立すことになったのである。
 横浜の燈台局に就職が決まり、仕上職工として働くことになった。そこで技術を身につけた彼は、25歳に至り燈台局を退き、以前から興味を持っていた自転車製造に取り組むことになった。
 明治10年には横浜市蓬莱町4丁目8番地に店を構え、職人も5人雇い自転車製造に専念する。
 明治10年頃は西南戦争で騒然とした時代であったが、横浜の実業家八田清衛からやっと1台の自転車の注文を受けることが出来たのである。翌年の明治11年には、有力な後援出資者も現れ、事業を拡張するため、横浜の高島町5丁目10番地に工場を移転することになり、1ヵ年に15台を生産する体制が整ったのである。
 その後、次第に梶野の名も知れ渡るようになり、明治15年頃には、早くも1ヵ年に50〜60台の生産を見る盛況ぶりとなった。製品の品質と耐久性も向上して、遂には軍の注目するところとなり、陸軍指定工場として、陸軍省、憲兵隊、陸軍戸山学校へ納入するに至る。こうして明治28年5月には時の神奈川県知事中野健明よりその功績を称え、賞状と木杯が授与されている。また同年に京都で行われた第4回の内国勧業博覧会では、有功賞も受賞している。
 そして梶野の自転車はついに海外まで進出することになり、露国と米国に輸出された。その製品は、外国品と比較しても遜色ないものとなったのである。
  明治30年頃、閑院宮載仁殿下が騎兵将校としての教育を受けるためフランスへ留学し、その帰国の際に軍用折畳自転車を購入して持参した。軍は早速この折畳自転車を見本として、梶野に同様のものを製作するよう下命したのである。その後苦心の末、やっとこれを完成させたのであった。この自転車は、明治天皇の天覧にも供されるほどの出来栄えであったといわれる。
 明治35年には、同業者を代表して、米国ワシントンに渡り、米国自転車発明銀婚式に参列している。
 この様に隆盛を極めた梶野も大正12年9月1日の関東大震災で甚大な被害を被り、遂にこの事業から撤退することになった。縮小された工場は、その後、甥の松本次郎吉(春之輔氏の父親)にすべてを譲ったのである。

 以上が伝記の概略である。この伝記を書いた人を松本氏に尋ねたが、分からないとのことであった。そして、松本氏は、内容について父(次郎吉)から聞いていることと2,3食い違っている点があると言う。それは、横浜の蓬莱町に初めて自転車工場を建てたのは明治10年となっているが、明治12年と父から聞いているし、また、翌年の明治11年には高島町に工場を移転したとあるが、これも明治19年頃と聞いている。それから、大正12年に工場のすべてを甥の松本次郎吉に譲ったとあるが、実際には既に明治38年頃、当時支配人であった父にすべてを任せていたと云う。

 松本氏が指摘するように、確かに文中には矛盾する箇所がある。これを正確な史実として採用することは出来ない。例えば「25歳に至り燈台局を退き」とあるが、これだと蓬莱町に自転車工場を設けたのは明治15年でなければならない。
 この辺りのことを他の資料で調べてみると、

 「明治12年初めて蓬莱町に自転車工場を設け、21年に高島町に移った」
 (『横浜成功名誉鑑』横浜商況新報社 明治43年7月)

 「自転車製造を志したのは明治10年頃のことで、当時外人が乗っていたダルマ型二輪車に興味をそそられ研究に乗り出し、明治18年横浜蓬莱町4の36に”梶野自転車工場”を設立したのであった。準備なり翌19年高島町5の10に工場を移し、本格的に自転車の製造を開始したのである。」
 (『地方輪界の歩み』日本輪界新聞社 昭和34年7月)

 これらを表にして整理すると次のようになる。
資料等↓所在地→ 蓬莱町 高島町
伝記 明治10年 明治11年
松本春之輔氏の話 明治12年 明治19年
横浜成功名誉鑑 明治12年 明治21年
地方輪界の歩み 明治18年 明治19年
神奈川のれん物語 25歳のとき(明治14年) 明治11年


 この表や他の資料などから判断して、私は、『横浜成功名誉鑑』の「明治12年初めて蓬莱町に自転車工場を設け、21年に高島町に移った」が妥当ではないかと考えている。ただこれについても疑問が無いわけではない。明治12年創業がどのような事業形態であったのか分からない。明治12年はあまりにも時期的に早すぎるからである。明治22年にやっと新聞広告を出しているが、その間の10年は一体何をしていたのか。恐らく彼の修行時代であったのであろう。

横浜高島町の自転車工場  明治41年頃撮影 松本春之輔氏提供

 明治40年頃が梶野自転車の全盛期であり、職工も40人ほどいたと言われている。いったいどのような人々が携わっていたのか、松本氏に聞いてみた。

 私がもの心ついた頃には、既にほとんどの人達が高島町の工場を去って行ったので、どのような人達が働いていたかよく分からない。当時の写真(明治41年頃撮影)に写っている人、或いはその後も何らかの交流があった人は、今でも覚えている。例えば、大沢政太郎、水谷才次郎、荒井、平野、小宮、加藤といった人達である。
 水谷才次郎という人は、明治42年頃、梶野を辞め、その後独立して郷里の桑名に帰り、そこで自転車店を開業している。当時からなかなかの努力家であった。
 小宮という人も梶野を辞め、その後川崎で自転車店を開業した。当時この地方には一軒も自転車店は無く、小宮が川崎での嚆矢ということになる。
 水谷や小宮に限らず、その他の職人も、それぞれ地方に散らばり、自転車業の先駆者としての役割を果している。
 宮田自転車は、明治23年の創業と言われているが、創始者である宮田栄助も実は自転車業を始める前に、この梶野を訪れ、一週間ほど職人達と混じり、自転車製造の知識を吸収したようである。
 高木喬盛館を築いた高木寿次も、同じように梶野に来て自転車を学んだ一人であった。
 それから当時、梶野を守り立てた人物で、海軍の新井有貫中将を忘れることは出来ない。この人は梶野の店を中心に、遠乗り自転車倶楽部である勇輪義会を組織し、盛んに梶野製自転車を宣伝した人物である。軍と梶野とのつながりはこのような人々によって支えられていたのである。

 以上が梶野と関係のあった人々である。多くの人材を育てた功績も見逃すことは出来ない。

 梶野仁之助にとって一番の悲劇は、何と言っても関東大震災で娘婿の徳次郎を失ったことである。この震災を機に、すべての企業活動から身を引いてしまった。そして、昭和2年、隠居の身となった彼は、横浜の地を離れ、東京の千鳥町に新居を構え、ここで余生を送ることになった。
 大東亜戦争が始まり、日本軍がフィリピン、マレー半島、インドネシアなどを次々に占領し、自転車部隊などが快進撃を続けていた昭和17年8月9日、仁之助は千鳥町の自宅で静かに息を引きとったのである。行年86歳という長寿をまっとうしたのであった。
 今だ国内は大本営発表の偽りの戦勝ムードにわいていたが、既に南方海上には巨大な暗雲が垂れ込めていたのである。

梶野仁之助略歴
西暦 元号 年齢 記 事
1856 安政3年 0歳 3月25日、神奈川県津久井郡太井村に生まれる
1864 元治元年 8歳 父の死に遇い、親戚の梶野敬三方へ引き取られる
丁稚見習いとして同家の家業である醤油醸造業に従事する
1871 明治4年 15歳 醤油樽の木片を利用して木製の自転車を作る
1877 明治10年 21歳 横浜の燈台局に就職する
1879 明治12年 23歳 横浜市蓬莱町4−8に工場を設け、自転車製造を始める
1888 明治21年 32歳 事業拡張のため横浜市高島町5−10に工場を移転する
1889 明治22年 33歳 2月3日 毎日新聞に梶野の広告 オーディナリーの挿絵入り 、三輪車 金35円、二輪車 金25円 横浜高島町 自転車製造所
8月15日 東京朝日新聞に自転車鉄道製造会社設立の件
8月24日 東京朝日新聞に自転車鉄道製造会社設立の相談会
(この自転車鉄道製造会社は、計画倒れで終わったようである)
1890 明治23年 34歳 第3回内国勧業博覧会・東京 自転車 出品者 山崎治兵衛(製造者・梶野仁之助)
9月14日 「自転車利用論」巻末に 各種自転車定価表広告
1891 明治24年 35歳 初めて梶野製国産自転車を中国に輸出する
1892 明治25年 36歳 東京中央電信局へ木製5台、鉄製硬質タイヤ車5台、計10台を納入する
(これらの自転車は初めて電信用に採用された)
1893 明治26年 37歳 2月26日 毎日新聞 梶野の広告 ビクター号の挿絵 (ビクターは、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニー社製造の自転車、1885-1900)
2月27日 東京朝日新聞 自転車練習場及び販売所広告 横浜 梶野自転車製造所
7月14日 毎日新聞 自転車予約製造広告、梶野仁之助
9月1日 毎日新聞 自転車予約製造第三回広告、梶野自転車製造所
1895 明治28年 39歳 1月10日 東京朝日新聞 自転車広告 梶野製作所 横浜高島町五丁目(社名を変更)
5月6日 陸軍省へ軍用自転車1台を献納した功績により神奈川県知事中野健明から賞状と木杯が授与される
4月1日〜7月31日 第4回内国勧業博覧会で有功賞を受賞
銘柄車「金日本」、「銀日本」を完成させる
1896 明治29年 40歳 外国商社より自転車の発注を受け、ロシア、シンガポールなどへ輸出する
「自転車術」渡辺修二郎著 少年園発行の巻末に広告
1897 明治30年 41歳 1月27日 東京朝日新聞 広告・発起認可に付来二月十五日を限り株主を募集す 横浜市高島町五丁目 大日本自転車製造株式会社創立事務所
1月30日 東京朝日新聞 大日本自転車製造株式会社、株主を募集
(株式会社化して社名変更)
5月12日 東京朝日新聞 横浜高島町の大日本自転車製造株式会社は以前一個人の営業たりし頃より米独、支那、豪州等へ輸出し居たりしが其後朝鮮及び印度地方よりも注文あるに至りしを以て今度之を会社組織となし昨十一日其設立認可を農商務大臣へ申請
(「以前一個人の営業」とあるは恐らく梶野仁之助のことであろう)
1898 明治31年 42歳 大日本自転車製造株式会社 社長、渡辺幸之助 専務取締役、村松武一郎 高島町六丁目12
(高島町五丁目10から六丁目12に移転している 社長も梶野仁之助ではない 業務の拡張であろうか)明治31年12月発行の『横浜姓名録』(加藤大三郎編刊 1898年)より
1899 明治32年 43歳 8月24日 中外商業新報 商業登記広告
合名会社登記簿第一册第五号
一、商号 梶野自転車合名会社 神奈川県高島町五丁目十番地 一、本店 東京市京橋区采女町二十三番地 一、目的 自転車製造並ニ販売 一、設立年月日 明治三十一年十月二十六日 一、代表社員ノ氏名 近藤常治 一、社員ノ氏名住所出資額ノ種類及ヒ価格 神奈川県横浜市高島町五丁目十番地 金一千六百六十六円六十八銭 近藤常治 同上 金一千六百六十六円六十六銭 梶野仁之助 同上 金一千六百六十六円六十六銭 梶野トメ
(また新たに社名を梶野と冠し、会社を起こしたようである。梶野トメは仁之助の妻、近藤常治はパトロンか)
1902 明治35年 46歳 同業者を代表してワシントンに渡り、米国自転車発明銀婚式に参列、その間に幾多の自転車製造工場を視察する
1903 明治36年 47歳 「実業世界 太平洋」(1巻10号 178頁)博文館発行に自転車の銘柄 金日本、銀日本 城邊河岸 梶野合名会社とある
1904 明治37年 48歳 日露戦争が始まり、従軍して酒保を命ぜられる その後、韓国城津で雑貨店を開く
1905 明治38年 49歳 横浜高島町の工場の管理を甥の松本次郎吉にすべて任せる 
1907 明治40年 51歳 この頃が梶野自転車の全盛期であり、職工も40人ほどいた
1913 大正2年 57歳 支配人である甥の松本次郎吉、感情的なもつれから 梶野を飛び出す 他の使用人も徐々に辞めていく
1916 大正5年 60歳 自転車製造を中止する 高島町の工場は閉鎖し売却される
1921 大正10年 65歳 梶野式特許傘を考案し、販売する
1923 大正12年 67歳 関東大震災で娘婿の梶野徳次郎を失う これを機にすべての企業活動から身を引く
1927 昭和2年 71歳 横浜の地を離れ、東京都大田区千鳥町76に新居を構え隠居生活に入る
1942 昭和17年 86歳 8月9日、千鳥町の自宅で死去 菩提寺は光明山東福寺(通称、赤門)横浜市西区



参考資料:

●「梶野仁之助」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”9〜12 1983年5月15日〜11月15日

●「神奈川のれん物語」田島武著 昭和書院 昭和47年6月20日発行