西暦 |
元号 |
年齢 |
記 事 |
1856 |
安政3年 |
0歳 |
3月25日、神奈川県津久井郡太井村に生まれる |
1864 |
元治元年 |
8歳 |
父の死に遇い、親戚の梶野敬三方へ引き取られる
丁稚見習いとして同家の家業である醤油醸造業に従事する |
1871 |
明治4年 |
15歳 |
醤油樽の木片を利用して木製の自転車を作る |
1877 |
明治10年 |
21歳 |
横浜の燈台局に就職する |
1879 |
明治12年 |
23歳 |
横浜市蓬莱町4−8に工場を設け、自転車製造を始める |
1888 |
明治21年 |
32歳 |
事業拡張のため横浜市高島町5−10に工場を移転する |
1889 |
明治22年 |
33歳 |
2月3日 毎日新聞に梶野の広告 オーディナリーの挿絵入り 、三輪車 金35円、二輪車
金25円 横浜高島町 自転車製造所
8月15日 東京朝日新聞に自転車鉄道製造会社設立の件
8月24日 東京朝日新聞に自転車鉄道製造会社設立の相談会
(この自転車鉄道製造会社は、計画倒れで終わったようである) |
1890 |
明治23年 |
34歳 |
第3回内国勧業博覧会・東京 自転車 出品者 山崎治兵衛(製造者・梶野仁之助)
9月14日 「自転車利用論」巻末に 各種自転車定価表広告 |
1891 |
明治24年 |
35歳 |
初めて梶野製国産自転車を中国に輸出する |
1892 |
明治25年 |
36歳 |
東京中央電信局へ木製5台、鉄製硬質タイヤ車5台、計10台を納入する
(これらの自転車は初めて電信用に採用された) |
1893 |
明治26年 |
37歳 |
2月26日 毎日新聞 梶野の広告 ビクター号の挿絵
(ビクターは、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニー社製造の自転車、1885-1900)
2月27日 東京朝日新聞 自転車練習場及び販売所広告 横浜 梶野自転車製造所
7月14日 毎日新聞 自転車予約製造広告、梶野仁之助
9月1日 毎日新聞 自転車予約製造第三回広告、梶野自転車製造所
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1895 |
明治28年 |
39歳 |
1月10日 東京朝日新聞 自転車広告 梶野製作所 横浜高島町五丁目(社名を変更)
5月6日 陸軍省へ軍用自転車1台を献納した功績により神奈川県知事中野健明から賞状と木杯が授与される
4月1日〜7月31日 第4回内国勧業博覧会で有功賞を受賞
銘柄車「金日本」、「銀日本」を完成させる
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1896 |
明治29年 |
40歳 |
外国商社より自転車の発注を受け、ロシア、シンガポールなどへ輸出する
「自転車術」渡辺修二郎著 少年園発行の巻末に広告
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1897 |
明治30年 |
41歳 |
1月27日 東京朝日新聞 広告・発起認可に付来二月十五日を限り株主を募集す 横浜市高島町五丁目 大日本自転車製造株式会社創立事務所
1月30日 東京朝日新聞 大日本自転車製造株式会社、株主を募集
(株式会社化して社名変更)
5月12日 東京朝日新聞 横浜高島町の大日本自転車製造株式会社は以前一個人の営業たりし頃より米独、支那、豪州等へ輸出し居たりしが其後朝鮮及び印度地方よりも注文あるに至りしを以て今度之を会社組織となし昨十一日其設立認可を農商務大臣へ申請
(「以前一個人の営業」とあるは恐らく梶野仁之助のことであろう)
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1898 |
明治31年 |
42歳 |
大日本自転車製造株式会社 社長、渡辺幸之助 専務取締役、村松武一郎 高島町六丁目12
(高島町五丁目10から六丁目12に移転している 社長も梶野仁之助ではない 業務の拡張であろうか)明治31年12月発行の『横浜姓名録』(加藤大三郎編刊 1898年)より
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1899 |
明治32年 |
43歳 |
8月24日 中外商業新報 商業登記広告 合名会社登記簿第一册第五号
一、商号 梶野自転車合名会社 神奈川県高島町五丁目十番地 一、本店 東京市京橋区采女町二十三番地 一、目的 自転車製造並ニ販売 一、設立年月日 明治三十一年十月二十六日 一、代表社員ノ氏名 近藤常治 一、社員ノ氏名住所出資額ノ種類及ヒ価格 神奈川県横浜市高島町五丁目十番地 金一千六百六十六円六十八銭 近藤常治 同上 金一千六百六十六円六十六銭 梶野仁之助 同上 金一千六百六十六円六十六銭 梶野トメ
(また新たに社名を梶野と冠し、会社を起こしたようである。梶野トメは仁之助の妻、近藤常治はパトロンか)
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1902 |
明治35年 |
46歳 |
同業者を代表してワシントンに渡り、米国自転車発明銀婚式に参列、その間に幾多の自転車製造工場を視察する
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1903 |
明治36年 |
47歳 |
「実業世界 太平洋」(1巻10号 178頁)博文館発行に自転車の銘柄 金日本、銀日本 城邊河岸 梶野合名会社とある
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1904 |
明治37年 |
48歳 |
日露戦争が始まり、従軍して酒保を命ぜられる その後、韓国城津で雑貨店を開く
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1905 |
明治38年 |
49歳 |
横浜高島町の工場の管理を甥の松本次郎吉にすべて任せる
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1907 |
明治40年 |
51歳 |
この頃が梶野自転車の全盛期であり、職工も40人ほどいた |
1913 |
大正2年 |
57歳 |
支配人である甥の松本次郎吉、感情的なもつれから
梶野を飛び出す 他の使用人も徐々に辞めていく
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1916 |
大正5年 |
60歳 |
自転車製造を中止する 高島町の工場は閉鎖し売却される |
1921 |
大正10年 |
65歳 |
梶野式特許傘を考案し、販売する
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1923 |
大正12年 |
67歳 |
関東大震災で娘婿の梶野徳次郎を失う これを機にすべての企業活動から身を引く
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1927 |
昭和2年 |
71歳 |
横浜の地を離れ、東京都大田区千鳥町76に新居を構え隠居生活に入る
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1942 |
昭和17年 |
86歳 |
8月9日、千鳥町の自宅で死去 菩提寺は光明山東福寺(通称、赤門)横浜市西区
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