自転車の歴史探訪

 
タイヤ事情

 前項の「宮田の試作第1号車」のところで、一部タイヤについて触れたが、この頃のタイヤの普及状況も判然としないところが多い。
 『宮田製作所七十年史』では「タイヤはソリッドの丸タイヤを使用」とあり、『宮田栄助追悼録』では「タイヤーのみ三田土ゴム工場より買入れしものなり」とある。更に「宮田工場主宮田栄助氏の談話」では、「外国製品を使用した。タイヤは一種独特のもので既に東亜護謨会社で研究中である」などと語っている。一番確かなのは外国製品を使用したと言う事であろうが、このような混乱が多いのも事実である。

 少し整理して簡単にタイヤの来歴について、次に述べてみたい。

 タイヤそのものの起源は車輪の歴史とともに古く、紀元前4000年頃のメソポタミア文明を築いたシュメール人にまで遡ると言われている。馬車を利用始めたころからシュメール人は、クッションと木製車輪の保護を兼ねて、その外周に動物の皮を巻き、釘で固定したタイヤを使用していた。これがタイヤの起源と言われている。その後、クッションはバネなどを利用するようになり、タイヤは耐久性を重視して鉄帯に変わっていったのである。鉄帯の時代は、その後1800年代まで続くことになる。

 1861年にミショー型自転車が開発され、その後車輪も鉄帯に変わりゴムを使用するようになった。しかし当時のゴムタイヤはまだ空気入りではなく、硬いソリッドゴムタイヤが使用されていたためあまり快適とは言えなかった。

 タイヤの素材であるゴムは15世紀にコロンブスによってヨーロッパにもたらされたと伝えられている。これを実用化したのが、アメリカ人のチャールズ・グッドイヤー(Charles Goodyear, 1800.12.9-1860.7.1)で、彼が1839年の冬のある日、実験を行っていたとき、ゴムに硫黄を混ぜ、それを誤ってストーブに触れさせてしまったところ、ストーブに触れた部分のゴムが糖蜜のように溶ける代わりに、革のように焼け焦げてしまった。その周りに乾燥した弾力のある褐色の物体が残ったのである。これが耐熱性のあるゴムの製造のきっかけとなり、この様な偶然から加硫ゴムを製造することに成功したのである。生ゴムは温度が上がると溶けてべとべとになるが、生ゴムに硫黄を加えると硬くて、しかも弾力性が富むゴムをつくることができたのである。こうしてグッドイヤーは1844年に加硫ゴムの特許を取得したのである。

 スコットランド人のロバート・ウィリアム・トムソンは、1845年に初めてゴムに空気を入れたものを車輪に接着して使う方法を考案した。以前にも車輪にゴムを巻き付けただけのものはあったが、ゴムを中空にしたものに空気を入れることによって自転車の乗り心地は格段と良くなったのである。これが自転車タイヤの原型となり、その後にいろいろな改良が加えられていった。

 1887年、トムソンと同じスコットランド人の獣医のダンロップ(John Boyd Dunlop, 1840.2.5-1921.10.23)は、10歳の息子のジョニーの誕生日のお祝いに三輪車をプレゼントした。そのときジョニーに「この三輪車に世界で一番速く走れる車輪をつけてやろう」と、ゴム製のシートや古着や哺乳瓶の乳首などを使って空気入りタイヤを作ったと伝えられている。この年に空気入りタイヤの特許を取得したが、既に同様の特許は1845年にトムソンによって申請されていた。後にトムソンと法廷で争うことになるが、自転車用の空気入りタイヤを実用化した功績はダンロップであった。

 フランス人のアンドレ・ミシュラン(1853年-1931年) 、エドゥアール・ミシュラン(1859年-1940年)の兄弟は、当初、農業機械やゴム製品などを製造していたが、ある日、1人のサイクリストのタイヤ修理を頼まれたことをきっかけに、タイヤ製造を始めたと伝えられている。
 1891年、彼らが製造した二重構造タイヤを装着した自転車がパリ〜ブレスト間のレースで優勝したことから、世間の注目を集めることとなった。
 1895年に開催された世界最初の自動車レース、パリ〜ボルドー間往復の全行程1200kmのレースでも彼らのタイヤが使用された。しかし、このレースでは100回近いパンクが発生してしまった。何とか規定時間を超過しながらも完走したと云われている。
 その後、ミシュランは、自動車、建設機械、農業機械、オートバイ、飛行機、自転車などの各種タイヤを製造・販売し、世界的な企業に発展していった。

 日本では、三田土ゴムが明治19年に創業しているが、はたして自転車用のタイヤを何時頃製造したか、よく分かっていない。「宮田工場主宮田栄助氏の談話」をそのまま信用すると、明治35年になっても三田土ゴムは自転車用のタイヤを製造していなかったことになる。
 東京府下南葛飾郡にあった東亜護謨会社がこの時期に研究していたといわれているが、その後、何時頃完成したのかについても分かっていない。東亜護謨会社のその後の消息も分からない。恐らく、明治35年までの国産自転車のタイヤはすべて外国製品を使用していたと思われる。

 明治42年7月6日 横浜貿易新報

 明治42年の新聞広告に宮田の旭号自転車が載っている中に、三田土ゴム製造合名会社製造の三田土タイヤ一式とある。恐らくこの時期に三田土ゴムは自転車用タイヤを製造・販売するようになったと思われる。三田土ゴムはその後、昭和20年5月に昭和ゴム(株)に吸収合併され、昭和24年6月には、日東タイヤ株式会社として分離し、現在は日東化工株式会社(昭和57年4月〜)に変わっている。

 安全型自転車が日本に輸入されてから間もない、明治26年の雑誌に次のようなタイヤについての記述がある。

 今や流行安全車輪製に3種の差あり、薄ゴム輪(ソリットタイヤー)、厚ゴム輪(クッションタイヤー)、空気入ゴム輪(ニューマチックタイヤー)にして第一は其ゴム薄きの故を以て其回転中ごつごつするの工合あり其速力随て遅し第二厚ゴム輪の方は回転するに際し円滑なれば其速力自ら早し第三空気入輪なれば砂上も水上も走り得べく是を最上等とすると雖ども途中物に触れ其輪を害損ぜば直に空気洩脱するの恐れあり且つ其修復の如きも未だ本邦に於て出来難しと云へば厚ゴム輪を選ぶ事可とす、ここに英人某横浜ガゼットに投寄せし自転車の記を読むに空気入と厚ゴム輪と京浜間を走試するに後車僅2分時間後るるのみと・・・(『猟の友』明治26年6月、2巻21号”自転車の効用”より)

 この時期はまだ空気入りタイヤのパンク修理が日本では困難であった様子が分かる。  英人某については、明治26年4月16日付けの東京日日新聞に次のように載っている。

 自転車に熟練なるカーピー氏は、横浜と東京築地の間を自転車にて往復することしばしばなるが、その片道に費す所の時間は、クッション・タイヤ製自転車なれば1時間23分にて達し、ニューマチック・タイヤ製自転車なれば1時間21分を費せども、1時間15分にて達するはさほど難しき事にてはなき由。元来横浜、新橋間はおうふくすこぶる雑踏の街道なれば、同氏もあまり疾走するを好まれず、しかれども新橋までは60分にて充分なりと云えり。

 タイヤの優劣や普及状況が分かる資料として、興味深い。更に具体的な走行距離と時間も分かる。
 現在のレース用自転車でチューブラー・タイヤなら当然もう少し速いと思うが、自動車の混雑と危険性そして信号待ちを考えれば、どうであろうか。

 明治44年3月30日 毎日新聞

 三田土ゴム以外の明治期の自転車タイヤ製造工場としては、明治ゴム製造所(明治33年創業)やダンロップ護謨(極東)株式会社(明治42年創業)をあげることが出来る。ただし、明治ゴム製造所が自転車用タイヤを製造した時期は、明治44年頃と思われる。

 明治44年3月1日 報知新聞