自転車の歴史探訪

 
小田原の老舗

 以前、小田原の自転車店の老舗を調べたことがある。明治45年5月発行の「全国自転車商名鑑」には、足柄下郡小田原町 香川自転車商会、同幸町 瀬戸自転車商会、同萬年町 大西捨吉という3軒の店が載っていた。この中で瀬戸自転車店のみ現在(小田原市本町1丁目10-31)も引き続き営業しており、私が調査した昭和58年の2月に二代目にあたる瀬戸幾三(明治38年生)さんから創業時の様子をいろいろと伺うことが出来た。それによると、先代の伊予吉は、明治8年鴨宮に生まれ、瀬戸家には婿養子として入籍している。旧姓は横田という。瀬戸家に来る以前は神戸の外人商館で貿易の仕事に携わっていた。当時の神戸は横浜同様に開港地として栄え、居留地には外人商館が建ちならび、いろいろな商品とともに自転車も盛んに輸入された。

 明治34年、外人商館を辞した伊予吉は小田原に帰り、そして結婚し、神戸時代に培った経験を生かして自転車店を開業した。その頃の自転車は輸入車が主で、瀬戸でも明治期は殆ど外国車を扱っていた。特にイギリス製のスパーク号を販売していた。その後、第一次世界大戦が始まると輸入車が途絶えたことから販売は国産車に変わり、主に丸石自転車を扱うことになった。

 大正10年頃からは、オートバイにも目をつけこれを販売している。この頃の国産オートバイは、イギリス製のエンジンであるビリアースとかジャップを国産フレームに搭載したもので、瀬戸で販売したオートバイはダイヤモンド号という名前であった。このオートバイは大阪の工場より仕入れ、船積みしてから海路小田原の港まで運んだという。オートバイの輸入車としては、トライアンフ、ネラカー、インディアン、BSA、アリエルなどを扱っていた。この頃から瀬戸では自店のオリジナル自転車として、ジャイアント号、優勝号を販売した。オリジナル自転車と言っても、単にトレードマークを考案し、無印の部品で組み立てた自転車にマークを貼り付けて販売するもので、ちょっと大きな店では一般的に行われていた。

 昭和に入ると顧客に対するサービスとして、富士山富士五湖一周競走を企画主催している。当日は朝早くからトラック2台をしたて、1台には自転車を積み、他の1台には参加者が分乗して出発した。籠坂峠を越えたところでトラックより降りて、山中湖、河口湖、西湖などを巡りながら遠乗りを楽しみ、白糸の滝からは、いよいよメインレースが始まり、沼津の千本松原まで一気に下ったという。現在でも店内には、その日のレースで優勝したと言われる自転車のフレームが天井より下がっている。沼津からは、またトラックに乗り込み、三島より箱根を越えて小田原に帰って来た。

 その他、瀬戸自転車店が企画主催した行事としては、小田原城のお堀近くでの平面トラックレース、伊豆下田一周競走などがあった。

 幾三さんはまた、明治の頃の面白い話として、自転車を1台売る場合でも客を料亭に連れて行き、床の間に自転車を飾って酒を飲みながら商談したという。それでも売れれば採算がとれたのであるから、当時の自転車がいかに高価であり、庶民には手の届かない贅沢品であったことが分かる。

 瀬戸自転車商会とともに「全国自転車商名鑑」に記載されていた香川自転車商会及び大西捨吉は、既に大正期に廃業している。

瀬戸自転車店 平成20年6月27日撮影


参考資料:

●「小田原の老舗」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”8 1983年3月15日発行