自転車の歴史探訪

 
元祖山岳サイクリング

 明治33年8月27日付けの二六新報新聞に次のような記事がある。

 日米輪客富士だより
 拝啓過日は失礼申上候扨其節御話申上候通り、去る十八日より富士登山致候處、御存じの如き暴風雨の為め四日三夜の間太郎坊、二合目、四合目、六合目等に閉じ込められ、二十二日漸く六合目より進行仕り、午後二時七合目へ帰着致し、是より自転車にて御殿場まで下り候、此時間僅かに五十分、行程十五哩にて、筆にも話にも致されぬ程面白き事柄も沢山製造致仕候、又た写真も沢山有之候得共、何れ帰京の上御話可申候、先は匆々不一。

                                      二十五日 ボーン
                                             鶴田勝三
秋山様

 ボーンが曲乗の達人、鶴田が本邦輪界の剛の者なることはわが読者諸君の先刻ご承知の通りなり。

 以上は、当時の二六新報社長、秋山定輔氏に宛てた手紙である。これがそのまま新聞に掲載された。

 昭和60年4月18日付の朝日新聞に、この時の富士登山の写真とボーンの手記が掲載され話題になった。これらの資料は、旧マエダ工業の社長であった河合淳三氏が米国のコロンビア社から入手したものと言われる。
 なお、これよりも早い昭和56年5月号の「サイクルスポーツ」誌(八重洲出版)でも既に掲載されている。
 アルバムに書かれたボーンの手記は次のとおり。

 我々は憂鬱な雨の中を名高い”富士”に登るため、横浜を後にした。登山基地に到着するまでに降りしきる雨がやんでくれることを期待しながら・・・・。”富士”に最も近い御殿場まで汽車を利用し、5時ごろに到着する。
 我々はすぐバックや自転車を運ぶための馬と人夫を準備し、太郎坊に向かって出発した。
 最初の夜は大きな茶店で1泊。翌朝、気になる雨はやまずに降り続けていたが、我々には限られた時間しかないので、この雨がやんでくれることを祈りながらとにかく出発することになった。どしゃぶりの雨の中、数時間の山登りをすることになった。その後天気は回復したが、見晴らしが全然きかなかったことに大変失望させられた。
 我々は4合目で一夜のテントを張ることをきめ、作業に取りかかった。次の朝も無情の雨は降り続く。待避所で天気の回復を待ったがやまず、本格的な風雨の中を強行することにした。ようやくの思いで6合目に到着。これ以上は危険と判断し、ここで一夜をすごすことにした。
 次の朝、雨はすっかりあがり、美しい空が広がっていた。我々は頂上に向かってすぐに出発した。
 昼前に頂上に到着することができた。頂上で1〜2時間、写真を撮ったりしたあと、下山するのに7合目まで同じ道を下る。7合目からは運んできた自転車に乗って、降りることを考えていた。しかし、出発点の傾斜が45度近くあったため、そのままで降りては自転車が凄い速さで滑ってしまう。そうならないよう、歯止めを付けなければならなかった。出発点を除けば石はほとんどないが、乾ききった灰ばかりで思うように進めない道だ。2、3回試みたあと写真を撮って、本格的にふもとに向かって出発する。私は自分のクリーブランド号に乗り、デヴィン氏は小さなソリに乗った。2〜3分は用心深く走ったが、あとは運を天に任せ、時速45マイル(約72km)のスピードで7〜8マイル(11〜13km)の下り坂を一気に走り降りた。
 鶴田氏はズダ袋にくるんだ荷物を2本の長い棒にくくり付け、これを自転車に取り付けて歯止めを作った。しかし、そのあとロープが擦り切れてしまい、彼はすごいスピードで落ちて行くように降りてゆき、傾斜が緩やかになった地点でようやく止まった。
 私とデヴィン氏はすぐに彼に追い付いた。途中でロープが切れてそのままになっている。我々の荷物 をどうしようかと思案していると、雲間から小さな物がころがり落ちてきた。それがだんだんと近づいてくると、我々の荷物であることが判った。この地点から道は険しくなく、デヴィンは馬を御殿場まで連れ戻り、鶴田氏と私は自転車で全距離10マイル(16q)を26分で降りた。
                                      ボーン記

 自転車で富士山を下るとき、橇を使ったとあるが、なかなか面白い工夫である。写真を見ると現場で思い付いたのではなく、当初から準備していたようである。
 なお、当時の雑誌「輪友」(創刊号・明治34年10月28日発行)にも、「自転車富士登山に就いて」と題し、次のような記事が掲載され、橇はボーンの考案だったとある。

 本年は石川商会の連中が富士登山を試みられたが其率先者たるボォン氏と鶴田氏の実験談をその時箱根で両氏と出会して聞いたままをお話ししましょう。
 先ず御殿場を発して登山に就いた、所が二合目で暴風雨に遭った、絶頂に往ったのは丁度二日目のことであったそうだ、勿論往きにはとても乗昇することが出来ないので、合力に自転車を担がして、登山したそうである。
 さて降りる段になって、ボォンの考案に成った彼の左官屋が土を練るような舟、あのような物を持って往って(其大きさは三尺四方丁度畳半畳敷位)それをどう云う具合に使ったかと云うに、何しろ彼等が降りたのは七合目からで、例の砂走りと云う所を降りるのであるから、自転車だけでは速力が速すぎて、どうしても降下することが出来ない。そこで例の舟の上に、持って往った自分たちの荷物を一杯載っけて、それへ綱を付けて自転車に結び付ける、詰まり自転車が其舟の綱曳をするのである其時に鶴田はデートン、ボォンはクリブランドに乗って居った。もう一人同行の西洋人があったが此人は自転車ではなく徒歩であった、其人が持って往った写真器で、写撮った十数枚の写真が、同人から私の手元に贈越されてあるからして、いずれそのうち、諸君に御覧に入れることに仕様と思う、で登山の稽古をするには、どうしても前に話したような舟を持って往って、帰りには其舟の上に荷物を載せて、そいつを自転車で引いて降りて来るのが、一番良い工夫であると考える、それからブレーキの付いた車が一番良いようである其時に鶴田がブレーキ無しの車に乗って往ったので可笑な話がある、鶴田はブレーキ無しで降りて来た所が、どうしても車が止められないので、止むをえずサドルから尻を放して、自分の尻でタイヤへブレーキをかけて降りた、所がズボンも、厚い下着も破れてしまって、尻が出るという始末、それから彼等は御殿場から山伝いに箱根の小地獄を経て蘆の湯へ来た、其處で丁度私に会ったのです、話を聞いてみると、随分登山中雨の困難はひどかったそうです、尚今年あたりもボォンが先達になって、自転車講と云うものを造って、登山すると云う話は聞いて居ったが、ボォンは病気か何かのためにオジャンになったらしい。此時の写真は昨年私が米国に行った時分に、始終外国人に見せて話したが、大分皆驚いて居ったようである。

米車クリーブランドで富士山を下るボーン
ソリに乗っているのはデヴィン 自転車文化センター提供

 上掲の写真が、文中にある十数枚の写真の一枚である。初の自転車富士登山から80年後に現れた写真である。  

参考資料:

●「日本最初の山岳サイクリング」大津幸雄
  日本自転車史研究会 会報”自轉車”68 1993年1月15日発行