自転車の歴史探訪

 
アニーロンドンデリー

 アニー・コーエン・コプチョフスキー(1870-1947)は、1870年にラトビア、リガのユダヤ人家庭に生まれた。
 一家はアメリカへ移住し、アニーは、1888年にマックス・コプチョフスキーと結婚した。4年の間に3人の子供にも恵まれた。
 その後アニーは、ロンドンデリーリチアスプリングスウォーター会社に就職した。仕事の内容は宣伝用のプラカードを自転車に取り付けて走り回ることであった。賃金は100ドルと安い広告料を貰うだけであった。自分の名前も会社からアニーロンドンデリーという芸名のような名前を名のるように言われた。
 アニーが世界一周を決意することになったのは、ボストンの二人の富豪による賭けが原因であったと伝えられている。「女性が自転車を使って、15ヶ月で世界を一周できるか」というものであった。賭け金は1万ドルで、それにはいろいろな条件が付随していた。例えば、金銭を一切持たないでスタートすることなどである。だから彼女は旅行中は広告料や体験談の講演などをしながら費用を捻出しなければならなかった。それでも2,000ドルを稼ぎ出したと言われている。宣伝広告は、自転車や彼女の衣服に目立つようにつけられた。なぜそこまでして、このような賭けに応じたのでだろうか。会社の目論見と彼女の強い意志がそうさせたのだろう。女性の地位は当時欧米でも低く「女に何ができる」という風潮があった。女性の社会的地位の向上や解放運動も芽生えてきたという時代背景もあった。女性が男性と同じように自転車に乗ることも、一つの表現方法である。しかし、女性が自転車に乗るには長いスカートや窮屈なコルセットは不向きであり、自由で開放的なスポーティな服装が求められた。
 自転車の普及により、女性の服装も徐々に変化してきている。アメリカで創作されたブルマーもその一つである。ジョセフ・ボトムレーは「自転車、その過去、現在、未来」の著書の中で、ブルマーを「アメリカ人の道徳的不品行」と述べている。保守的なヨーロッパでは、まだまだ女性の自転車乗りに対して批判的であった。アニーの挑戦は、そのような批判に対する反発もあったのだろう。それに私にもできるという強い信念が彼女にはあったに違いない。
 アニーは、3人の可愛い子供と夫を残し、いよいよ自転車で旅立つことになった。1894年6月、ボストンを出発した彼女はシカゴへ向かう。ところが自転車の旅は、当初思ったほど楽ではなかった。自転車もコロンビア社製の重いもので、重量は19キロもあった。それに女性の窮屈な服装ではこれからの長い旅が思いやられた。「とてもこれでは世界一周などできない」という悲観的な気持ちになってしまったのである。そのように悲嘆にくれる彼女に転機が訪れたのは、自転車と衣服の改善であった。この二つの問題を解決することにより新たな希望がわいてきたからである。それは、長いスカートから軽快なブルマーに着替えることと、自転車を重いコロンビア社製の自転車からスターリング社製自転車に取り替えることであった。スターリングは、堅牢で重量も軽く10キロ近いものであった。このスターリングは、日本でも明治36年頃日米商店が輸入し、人気のある銘柄の一つであった。
 この服装とこの自転車なら旅の成功も可能であると確信できるようになったのである。気持ちを新たにしたアニーは、シカゴを再スタートし、当初考えていた地球を西回りするコースから東回りでニューヨークへ向かうコースに変更した。一つには時期的に冬を迎えるので、強い偏西風による太平洋の荒波を避けたものと思われるが、これは常識的な選択である。
 11月、ニューヨークからフランスへ渡る船にのり、いよいよ世界一周の旅が始まった。その後、パリから地中海へ出て、船でエジプトに向かう。アラビア半島は陸路を自転車で縦断し、イエメンに到着。イエメンからは、また船にのりスリランカ、シンガポール、香港、上海、韓国を経てやっと日本にたどり着く。日本の神戸と横浜に何月何日に到着したか定かではないが、宣伝広告を兼ねての旅行なので、当然話題になったはずである。恐らく横浜に着いたときから、サンフランシスコへ向けて出発するまでの間は、物見高い日本人が大騒ぎをしたと思われる。それとも「女のくせに」という呆れたような目で見たのかも知れない。何れにしても、当時のマスコミはあまり騒ぎ立てた形跡がない。今後は、この辺の調査も必要かと思われる。恐らく当時の新聞や雑誌に話題を提供したと思われる。

 今のところ次のような新聞各紙が報道したことが分かっている。

○明治28年3月2日付けの東京朝日新聞
 自転車乗り婦人の世界周遊
 自転車乗りの流行は独り東京のみならず目下欧米にても亦大流行となり貴女に至るまで意気揚々自転車に乗りて競争するの勢いとなりたりとのことなるが茲に奇を好む亜米利加の一婦人は自転車乗りの世界周遊を企てたり其名をミツス、アンニ、ソントンデーリイという此婦人は大胆にも一人の同行者なく単独にて昨年の九月廿四日シカゴ市を発しクリヴレンド、ブーハロ、ロチェスター等を経て紐育府に出で同府より汽船にて仏蘭西ボルドーに渡り同所より又自転車にて仏蘭西南部地方を経伊太利希臘土耳古波斯を乗り廻して印度カリクツタに至り同所より汽船にて日本に渡り日本より桑港に渡航し同所よりシカゴに帰る予定にて周遊期日を十一ヶ月とし本年五月桑港に着し八月頃シカゴに帰るべしといへば予期の如く妨害なく乗り廻したらんには本邦に到着するも近きにあるべし単騎旅行徒歩漫遊の人はありたれども自転車周遊はミツスアンニを以て嚆矢とす其一婦人なるに至りては一層珍奇なり今後風船飛行にても企つる人あらば亦妙なるべし
(カタカナや国名に読みにくい部分もあるが、一資料としてそのまま書き写す)

○明治28年3月3日付けの大阪朝日新聞
 世界周遊の女史
 自転車にて単身世界周遊を思ひ立ちし米国傍士頓のアニエー、ロンドンダーリーと呼べる妙齢女史一昨朝英国郵船シドニー號にて神戸に着せし女史は昨年六月二十五日を以て傍士頓を発して欧州に渡り十五ケ月間を以て周遊を完うするの予定にて其傍士頓を発するや一銭を當へず而して途中既に五千弗を得たり(是は演説等を為して有志者の寄附に得たるもに係る)旅行中は新聞事業には従事せざる約束なりて女史が此行を思ひ起ちたるは傍士頓にて女流にして単獨自転車周遊を全うし得る者の有無に就き拾萬弗と貮拾萬弗との賭を為す者ありしに因ると云ふ一昨夕は神戸の自転車クラブ員の誘導にて同遊園地に於て乗車の技を演じ同夜横浜までの旅費(船賃)として有志者より醸出せし金賈四五拾弗に達したりとなり女史は昨朝神戸を出発せり

○明治28年3月5日付けの讀賣新聞
 自転車にて世界周遊を企てたるロンドンデリー嬢と云へるは米国より欧州に赴き佛国より大陸を横切り埃及波斯等を経てシドニー号に乗り込み去る一日神戸に着したりと嬢は其翌日神戸より同様自転車にて東京に向う筈なりしも雨天の為に見合せし由なるが多分昨朝出発の途に就きしならんと云

○明治28年3月6日付けの東京日日新聞、電報欄(神戸通信、三月二日発)
自転車世界一週
自転車に乗じて世界一週を企てたる米国の新聞記者ロンドンデイリー嬢は昨朝香港より入港のシドニー號にて神戸に着し同日午後六時より居留地運動場に於て居留外人に乗車を一覧せしめ本日同船にて横浜に向へり

○明治28年年3月9日付けの英字新聞ジャパン・ウイークリー・メール
 神戸クロニクル新聞の記事を引用して、「賭けで世界一周」と題し、神戸での状況を次のように報じている。
 彼女は、金曜日の夕方に神戸の公園を自転車で周回した。居留地の婦人であるヒューズ、シェファード及びクラークさんらと一緒に走った。これは日本滞在中の経費を捻出するためのもので、彼女は、胸やニッカーボッカーの膝バンドに目立つ広告を縫いつけていた。

 横浜を発ったアニーは、その後太平洋を船で渡り、カリフォルニアからまた自転車でアメリカ大陸を横断し、1895年9月無事シカゴに到着した。
 自転車世界一周といっても、殆んどが船の旅のようである。例えば日本の例をとっても横浜から横浜では、恐らくその間に東京に立ち寄った程度ではなかったかと思われる。トーマス・スチーブンスは、日本だけでも長崎から横浜までサイクリングを実際に行っている。それに自転車はセーフティー(安全車)ではなく、不安定な前輪の大きなオーディナリー(ダルマ自転車)であった。
 だからと言って、アニーの成し遂げた女性による単身の世界旅行は歴史に残る快挙であり、素晴らしいことには相違ない。この事実は歴史に書きとめるに相応しい価値あるものである。
 女性の世界旅行者は、同じ頃もう一人現れている。ファニー・ブロック・ワークマンという女性で、夫のウイリアムと10年間も世界中を旅行している。1895年には自転車でアトラス山脈を越え、サハラ砂漠に至る難コースを制覇した。日本にいつ頃来日したか等は、いまのところ不明である。

 自転車による世界一周旅行の嚆矢は、1886年(明治19)に来日したトーマス・スチーブンスだが、その後も数人が来日している。明治30年代までを当時の新聞から拾ってみると、次のようになる。

○トーマス・スチーブンス
 自転車世界一周のスチーブンス来朝 1886年(明治19)12月4日付け時事新報

○フランク・G・レンツ
 自転車世界漫遊者の渡来 1892年(明治25)11月19日付け東京朝日新聞

○アニー・コーエン・コプチョフスキー
 自転車乗り婦人の世界周遊 1895年(明治28)3月2日付け東京朝日新聞

○少なくとも3人(名前は不明)
 世界一周の旅行者が東京に到着 1898年(明治31)2月17日付け国民新聞

○G.A.フレザー
 自転車世界漫遊者の演説会 1898年(明治31)3月3日付け東京朝日新聞

○中村春吉
 日本人初の世界旅行者 1902年(明治35)2月22日横浜港を出発

 これ以外でも新聞に載らなかったり、見落とした来航者はあると思うが、今後調査したい。

写真は、アマゾンの下記書籍案内から転載
Around the World on Two Wheels: Annie Londonderry's Extraordinary Ride