自転車の歴史探訪

 
中村春吉自転車世界無銭旅行

 自転車世界無銭旅行者の中村春吉については、押川春浪の冒険小説『中村春吉自転車世界無銭旅行』や横田順彌の『幻綺行 中村春吉秘境探検記』、『大聖神 中村春吉秘境探検記』、『日露戦争秘話 西郷隆盛を救出せよ』、『明治バンカラ快人伝』など多数出版されている。
 ここでは、当時の雑誌などに掲載された記事を中心に述べてみたい。

中村春吉の名が最初に自転車雑誌に登場したのは「輪友」ではないだろうか。
 雑誌「輪友」(第2号、明治34年11月25日発行)に小さく次のように掲載されている。

◎自転車世界周遊
 11月馬関の中村春吉なる人自転車世界周遊を思い立ち本月14日横浜に向け発程せりと云う

彼の世界旅行は、山口県の下関(馬関)からはじまったのである。

 馬関とは、山口県下関のことで、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれ、赤馬関とも書いた。これを略して馬関(ばかん)と呼んだ。地理的には現在の下関港辺りである。
 中村春吉は、この馬関で明治31年に「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開いていた。この馬関から明治34年11月14日、自転車による世界一周の旅をスタートさせたのである。

雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話(読みやすくするため一部原文を補正)によると、

明治34年11月15日12時に下関を出発し、18時40分に三田尻に着。その後、久賀郡の知人宅で一泊。(久賀郡で二泊か?)

明治34年11月17日8時に久賀郡を出発して、広島に向かう。13時に広島着。大手町の鳥飼繁三郎の家で自転車のベルを修理してもらう。それから赤谷という人から空気入れのポンプを入手。この日は深越村の大下龍之進の家に泊る。

明治34年11月18日7時30分深越村の大下龍之進宅を出発。生まれ故郷の御手洗へ向かう。その途中の四日市西條というところに急坂があり、向こうから牛飼いが牛を牽いてのぼってくる。ベルを鳴らしたところ牛が驚いて暴れ出し、自転車にぶつかる。その瞬間に泥除けがはずれ、車輪に巻き込まれたため横転する。田圃の中に投げ出されて顔面を打つ。痛さをこらえながら再び自転車に乗って出発する。竹原町の警察署に寄り、旅の話などをする。それから写真屋を尋ね記念の写真を撮ってもらう。明神の鼻から便船に乗船し御手洗へ向かう。故郷の御手洗で10日程滞在する。

明治34年11月27日7時30分御手洗を出発し尾道へ。尾道では十四日町の鉄砲屋児玉という人の家に泊る。

明治34年11月28日早朝、尾道を発つ。福山の親類を尋ねる。その後、岡山に向け出発する。途中、笠岡の手前で犬にほえられる。空砲を撃って追っ払うがなかなか逃げない。全部で4発撃ってやっと追い払うことができた。ところが近くの家から人が出てきて、鉄砲の弾が当ったという。空砲だと言うと、砂が顔に命中した勘弁できぬと騒ぐ、そこで笠岡の警察署に同道して事情を説明する。その男は警官に説得され帰る。その騒動の後、署長と歓談し、昼飯をご馳走になる。13時30分、警察署を出発する。岡山には17時に着く。その晩は、双輪会で歓迎会を催してくれた。このクラブに一泊する。

明治34年11月29日早朝、自転車の損傷箇所を修理する。11時40分に双輪会のメンバーに謝意を述べ、出発して姫路に向かう。19時30分姫路着。大工町の須貝潜の英語学校を訪ね一泊を請う。当初断られたが理解され、泊めてもらうことになった。その学校の生徒や教師の前で、2時間ほど英語でいろいろな話をする。

明治34年11月30日7時20分、須貝氏や学校の人々に謝意と別れをつげ出発、神戸に向かう。途中、猟犬を連れた猟師とトラブルがあったが、無事に神戸へ着く。元町の長尾商店で夏用の帽子をもらう。その後、橋本商会を尋ねる。店の小僧とトラブル。外国帰りの少年で英語で応対したため。当初、日本語ができないことを知らなかったため、生意気な小僧と中村は判断した。橋本商会では昼飯をご馳走になる。13時に橋本商会を出発。14時30分に大阪着。大阪朝日新聞社に立ち寄り、自転車世界旅行の話をする。橋本商会大阪出張所にも寄る。20時に難波の親戚の家に行き、泊る。

明治34年12月1日、難波にある鉄工所の飾秀の親戚に昨日の夜から二日滞在する。

明治34年12月3日、朝飯に雑煮をたくさん食べ9時に出発する。餅と饅頭をたくさんいただき自転車のカバンに詰める。再度、大阪の橋本商会の支店に立ち寄る。非常に歓迎してくれる。支店長の高谷さんが二里程送ってくれる。京都には14時頃に着く。京都輪友倶楽部の人々の歓迎を受ける。この倶楽部の配慮により、高級旅館に泊ることができた。

明治34年12月4日、朝京都を発ち四日市に向かう。途中、大津から鈴鹿峠までは自転車に帆をかけて走る。かなりのスピードが出る。水口というところの警察署に立ち寄って小休止をする。12時20分、警察署を出発する。出発の間際に署長さんからたくさんのビスケットを貰う。15時に鈴鹿峠を自転車で一気に下る。四日市新町には19時に着く。本日の宿泊場所を探す。当てが無いので警察署や市役所を尋ねたが断られる。市役所の当直員からピンヘッドのタバコを貰う。思案の末、知人宅があることを思い出す。私立三重唖学院の高松清作院長である。そこで、この家を訪ねたところ歓待される。風呂に入ってから遅い夕飯を食べる。0時30分に就寝。

明治34年12月5日、朝、高松さんの案内で、この学院の教授方法を参観する。行き届いた教育法に感心する。9時に学院を出発する。11時に木曽川の渡し場に到着する。無銭旅行の旨を渡し守に説明して快諾を得る。木曽川を舟で渡った後、最寄の警察署に寄る。お茶を一杯ご馳走になり、飲料水も貰う。15時40分に無事名古屋に到着。それから電気諸機械製造及輸入金物木材雑貨商の角田福次郎の紹介で、アンドリュース・ジョージ商会名古屋支店を訪問する。非常に歓待してくれて、旅館までとってくれる。その晩は洋食をご馳走になる。

明治34年12月6日、早朝に自転車を清掃・整備する。その後、憲兵屯署に向かう。そこで近藤代三郎という人が来て、私の自転車を点検してくれた。スポークが悪いと言って、修繕までしてくれた。その上、ランプの油や機械油の提供までしてくれた。山中鍋太郎という人からは、タバコを貰う。11時30分にここを発ち、鳴海に向かう。三里ほど走り鳴海に着く。着いたころにサドルのネジが折れたので補修をする。そして岡崎に向かう。岡崎では飛輪会副会長の千賀千太郎氏方を訪問する。そこにちょうど会長と幹事諸君が来て、近くの料理店でご馳走になる。飛輪会の好意により岡崎一の旅館に泊めて貰う。

明治34年12月7日、出発に際し、岡崎飛輪会のメンバーと記念の写真を撮る。8時40分に岡崎を発つ。副会長の千賀君、幹事の牛田君ら4名が、会を代表して二里程送ってくれる。その後、御油に到着。警察署に立ち寄り小休止する。昼飯を食って行けと言われたが辞退する。11時に警察署を出発。豊橋には、ちょうど12時ごろに着く。双輪会の会長宅を尋ねるが生憎留守であった。警察署へ行って、名刺を置き発とうとすると参陽新報記者の河合弘毅氏が来て、自宅へ寄って行けと言われる。河合氏と歓談し、昼食までご馳走になる。15時に河合氏宅を出る。遠州浜松へ向かう。途中、浜名湖を舟で渡るとき強風のため、岩に舟の舵が引っかかる。急遽、私は帆を下ろして櫓を一生懸命に漕ぐ。そして無事に渡ることができた。その時にたまたま沖商会の林五十三という人が同舟していて「君のお陰で助かった」と礼を言われた。浜松に着いたのは、17時30分頃であった。警察署に行き宿の手配を頼んだが、断られる。そこで、同舟した林五十三の宿所を尋ねる。よく来てくれたとばかり、歓待してくれる。そして同宿する。

明治34年12月8日、朝8時に浜松を発ち、天竜川の橋に着く。ここの渡守は無銭では通させぬということになり、仕方なく小夜の中山経由で静岡に向かった。何という名前の旅館か忘れましたが、こころよく無銭で泊めてくれた。

(如何いう訳か明治34年12月8日の天竜川から1日ずれてきている。中村春吉氏直話ではこの日は7日になっている)

明治34年12月9日、7時30分に宿を発ち、なにごとも無く沼津に着く。松本和平という大きな旅舎へ行き、宿泊を依頼したらすぐに快諾してくれた。

明治34年12月10日、朝警察署を尋ねる。署長さんから無銭では手紙を出すのも不自由するだろうと言って、切手をいただく。また宿屋に戻り、箱根のくだりで使用する自転車の背負子を作る。9時20分に宿を発ち、箱根を上る。箱根を越すときに一滴の水もなくなり苦労する。茶店に着き渇きを癒す。下り坂は自転車を背負って下る。ところがその途中空腹に耐えられなくなり、一軒の茅屋を尋ねる。無銭旅行を説明したところ、こころよく食事を提供してくれた。この親切な人は、神奈川県足柄下郡湯本村字須雲川の安藤寅吉という人だった。元気になったところで、湯本へ下る。福住という旅館を訪ね宿泊を依頼したら、主人は留守で、取込んでいるからという理由で断られる。しかたなく駐在所を尋ねる。ところが後から追ってきた福住旅館の若者が来て、いま主人が帰って来て、なぜ断ったと叱られ、おつれもうしてこいということで来たという。しかし、婚礼があり取込中のことだからと私は辞退した。そして、小田原へ向けて湯本を発つ。小田原に着いたのは22時頃になっていた。旅館片野屋を尋ねて宿泊を依頼したところ、混雑しているのにもかかわらずこころよく歓待してくれた。

明治34年12月11日8時に旅館を発ち、無事に神奈川に着く。自転車の油がきれたので、近くの貸し自転車屋に立ち寄り油をさしてもらう。東京に向かう途中で平岡宗之助という人に会って同行する。13時に双輪商会の練習所に到着する。この旅行の経験で8時から16時までに25里走ることは容易と分かる。そして長途の旅には必要の物以外は携帯しないこと。

 この自転車無銭旅行の旅は、明治34年11月15日12時に下関を出発し、明治34年12月11日13時に東京に到着している。この長い助走期間と準備があればこそ世界一周も成功させることができたのであろう。

中村春吉の無銭旅行について、当時もいろいろな評価があった。

松田歴山という人は、
無銭旅行、言い換えれば乞食旅行だ。紳士として好ましくない。なぜ金を貯えてから旅に出ないのか。湯本の福住などへよくずうずうしく只で泊めてくれと言えたものだ。天竜川でも橋銭を払わずに渡ろうとした。教育者としていかがなものか。ベルやポンプが3日と経たないうちに壊れるとは、世界を周遊しようとする人の用意とは思われない。縁もゆかりもない宿屋などは気の毒である。このような旅行は中止した方がよい。

と手厳しい。(明治35年2月13日発行の雑誌「輪友」第4号より)

雑誌「輪界」明治41年9月25日発行に掲載されたお馴染みの写真

馬関から東京まで無銭により長距離サイクリングをした中村春吉は、いよいよ世界へ旅立つことになった。それは翌年の2月に実行された。

雑誌「輪友」第5号、明治35年3月10日発行に次のようにある。

世界周遊者の見送り
世界周遊の自転車乗り中村春吉は去る2月22日正午横浜出帆の汽船丹波丸にていよいよ香港へ向け出発したければ那珂会長はわざわざ東京より来り、曽我部幹事長と共に本船まで見送りたり

明治35年2月22日に横浜を発ったとあるが、押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日博文館発行)では、

汽船は日本郵船会社の丹波丸、時は明治35年2月25日の午後1時、いよいよ無銭冒険自転車世界一周の目的を抱いて、日本横浜港を出発することになりました。

とあり、3日のズレがある。馬関出発の日付でも明治34年11月15日と明治34年11月14日と1日ズレている。どちらが正しいのか今となっては分からないが、とりあえず明治35年2月22日横浜港出発と明治35年11月14日馬関出発を採用したい。理由は単にそれらが記述されている資料が古いからである。

明治35年2月22日、汽船丹波丸にて横浜を出向した中村春吉は、同年の3月15日に香港に到着している。
   香港在住の日本人である梅谷正人氏の世話になり、領事館などを訪ねている。領事館での話によるとオーストラリア政府は規則を変更して東洋人の上陸を禁じることになった由で、彼はオーストラリア行を諦めシンガポールへ向かう。

 自転車での走行記録は不明で、印度までは殆んど船での移動のように思われる。当時の治安や道路状況を考えれば、当然の結果かもしれない。

インド以降の消息を断片的に拾ってみると、

○イギリスのリバプールにて (雑誌「自転車」第31号、明治36年2月28日発行より抜書)
 世界一週の自転車乗(下関市の一青年倫敦に入る)
 倫敦エキスプレスの記者に語れる所によれば彼は日本山口県馬関の者にて中村某といい自転車の世界一周を思い立ちて既に其一半を終わり先ず日本を発足して支那、印度、露西亜、白耳義、仏蘭西国を縦断し伊太利、土耳古をも訪いたり・・・
(この頃まだ日本国内では中村春吉の自転車世界一周旅行について、それほど話題になっていなかったようである。中村某とあるところを見ると、関心の度合いも分かるような気もする。明治37年に押川春浪の冒険小説「中村春吉自転車世界無銭旅行」が『中学世界』に発表されてから彼の知名度は徐々にあがっていった。

イギリスのリバプールにて

○ニューヨークに於ける中村
(雑誌「自転車」第33号、明治36年5月10日発行より抜書)
米国の「自転車世界」という雑誌に中村春吉がニューヨークに到着したことを報じている。
去る土曜日にニューヨークに現れたり、彼は発熱のため・・・(どうやら風邪をひいたらしい)
中村は1901年11月に東京を出て世界旅行の途に上れり、・・・(横浜港を1902年2月25日に出帆したと思っていましたが、スタートは東京だったのか)
故郷山口県にては彼は六百人の生徒を有する慈善学校の教師なり、・・・(馬関忍耐青年外国語研究会のこと)
我が用いたるアメリカ製自転車は充分満足を与えたり、・・・(彼がこの世界一周旅行に使用した自転車はアメリカ製のランブラーである。あの志賀直哉も乗っていた自転車である)

ボストンに於ける中村春吉

 自転車世界無銭旅行の行程をまとめてみると、次のようになる。
 日付が若干資料により2,3日ずれているが、これは彼の記憶違いか印刷ミス等ではないだろうか。
 例えば先にも書きましたが押川春浪の冒険小説では、横浜港の出発日は明治35年2月25日だが、雑誌「輪友」第5号では明治35年2月22日になっている。
   なお目的の都市への到着日と出発日の日付が書かれていない箇所が多々あり、詳細は分からない。

1902年(明治35)02月25日 横浜港を汽船”丹波丸”にて出発
1902年(明治35)02月27日 下関に寄港
1902年(明治35)02月28日 下関港を出発して上海に向かう
1902年(明治35)03月03日 上海到着、一時上陸して市街地を見学する  
1902年(明治35)03月08日 香港到着、東洋館に宿泊、豪州行きを考えていたが諦めて再び丹波丸に乗船してシンガポールへ向かう、シンガポール到着後陸路自転車でラングーンに向かうが急峻な山稜に阻まれ断念、またシンガポールに引き返す
1902年(明治35)03月18日 英国汽船ツー・バンド・ファナー号でシンガポールを出発し、ラングーンへ向かう、ラングーンからは陸路自転車でカルカッタに向かう、
1902年(明治35)04月01日 カルカッタ到着、ブッダガヤへ向かう
1902年(明治35)04月02日 ボードワン到着、翌日ラジャバンドへ向かう
1902年(明治35)04月04日 カツラガハー到着
1902年(明治35)04月16日 ブッダンガヤ(ブッダガヤ)に到着し二日滞在する、その後ガンジス河の支流クドロー河の岸に達し、水牛の背に跨り渡河する、砂漠を横断しマンキポールという町へ、その後ミルザポール〜アロハバッド〜ジャバポール〜ボンベイ〜アグラー〜タヂ〜デレー〜ボンベイへ
1902年(明治35)10月10日 イタリアの汽船に乗船しボンベイ(ムンバイ)を出発〜アデンへ
1902年(明治35)10月16日 アデン到着
1902年(明治35)10月17日 アデン出発
1902年(明治35)10月20日 スエズ到着
1902年(明治35)10月28日 ポーセット(ポートサイド)出発
1902年(明治35)10月30日 イタリアのナープル(ナポリ?)到着
1902年(明治35)11月01日 ローマ村到着〜ローマへ
1902年(明治35)11月09日 ローマを出発しゼノア(ジェノヴァ)へ、途中スペンヂャからアルプス越え〜キャプレー
1902年(明治35)11月15日 ジェノヴァ到着〜マルセイユからリヨンまでは汽車に乗る〜パリへ
1903年(明治36)01月07日 ロンドン到着〜リヴァプールへ
1903年(明治36)01月22日 汽船ブレーデン号でリヴァプール出発しボストンに向かう〜時化に遭い1ヶ月間大西洋を漂流
1903年(明治36)02月21日 無事ボストン到着〜ニューヨーク〜フィラデルフィア〜ワシントン〜シカゴ〜北米大陸を横断しサンフランシスコへ
1903年(明治36)04月10日 サンフランシスコ到着〜汽船香港丸で日本へ
1903年(明治36)04月30日 ハワイ寄航
1903年(明治36)05月10日 横浜港到着

この項目を終わるにあたり、彼の略歴を以下に記す。

1871年(明治4)3月 広島県豊田郡豊町御手洗に生まれる
1893年(明治26)ハワイへ移住
1897年(明治30)ハワイより帰国
1898年(明治31)下関で「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開く
1902年(明治35)2月25日 自転車世界一周のため横浜港を出帆
1903年(明治36)5月10日 世界旅行から無事帰還
1904年(明治37)『中学世界』(春期増刊号)に「無銭冒険自転車世界一周」(押川春浪編述)が掲載される
1912年(大正元)『快男児快挙録』河岡潮風作 東京堂で出版
1925年(大正14)東京市四谷に「中村霊道治療所」を開設
1928年(昭和3)同治療所を弟子に任せ故郷の御手洗町へ帰る
1945年(昭和20)2月 死去

 なお日本自転車史研究会では、昭和59年1月1日に押川春浪の「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日発行)を復刻出版している。