自転車の歴史探訪

 
日本に伝来したのはいつ頃か?

 ドライジーネからミショーまで話は進んだ。そろそろ極東の小さな島にも自転車が現れる時期である。
 ドライジーネは、日本の土を踏んだのであろうか?今のところ、その形跡はない。

 明治3年(1870年)発行の「絵入り知慧ノ環」という初等教育の教材に「自在車」という名でホビーホース(英国名、Hobby horse 他にダンディーホース Dundee horse とも呼ばれていた。1818年頃)が載っている。
明治3年(1870年)発行の「絵入り知慧ノ環」に載っている自在車
 1870年といえば、すでに欧州ではミショー型自転車が全盛であった。日本にもその情報は入っていたと想像されるが、この画から判断するかぎり自転車と自在車が同一のものという認識を欠いているような気がする。認識していれば、このような画を教材に使うこともなかったはずである。恐らく明治3年のこの時期には、ドライジーネも、ミショーも日本に入っていなかったと思われる。
 ただ、三輪車は幕末の横浜に渡来した可能性がある。1865年(慶応元年)の発行である(『横浜文庫(横浜開港見聞誌)』玉蘭斉貞秀作)に、自輪車という名の三輪車の記事と挿絵がある。この本があるからといって直ちに、その三輪車が横浜に実際あったとは断言できないが、それを否定する根拠も無い。
 私は、前項の「車輪について」の中で、次のように述べた。

   自転車の歴史に、広義的に三輪車などを入れる場合もあるが、本稿での自転車の歴史は直列二輪のものを自転車と定義したい。自転車の歴史の中で、この直列二輪の発明が最大のものであるからだ。自転車たる所以もそこにあると思う。

 だから三輪車には触れないつもりでいた。しかし、日本の自転車の歴史を記述するにあたり、これは、どうしても避けては通れないと感じた。なぜなら、江戸時代にドライジーネもミショーも到来した痕跡がないからである。

 三輪車構造の乗り物は古く、西欧では中世までさかのぼる。或いは、それ以前にも存在するかも知れない。それだけ未知の部分が多いのである。三輪車や四輪車の歴史は、直列二輪車に較べ息が長いのである。

ステファン・ファフラーの三輪車
手動クランク・ギア方式 1689年
「馬車の歴史」ラスロー・タール著 平凡社
 例えば、1420年頃には、ジョバンニ・フォンタナの考案した手動式四輪車がある。その他、ドイツ・ニュールンベルグのヨハン・ハウチは、デンマーク王のために四輪の足踏み駆動式の馬車を考案し、献上したと伝えられている。さらにハウチの車を参考に、ニュールンベルグ近郊のアルトドルフに住んでいた時計職人のステファン・ファフラーは、1689年に手動式の一人乗り三輪車を考案している。彼は、両脚がなかったため自分も含めた身体障害者用の乗り物を考えたのである。この三輪車の細かい構造はよく分からないが、クランクとギアにより、前輪を駆動させるものであった。時計職人の彼にとって、三輪車の歯車構造などはおてのものであったに違いない。
 前輪の上部に箱のようなカバーがあり、箱の左右からグリップの付いたクランクが出ている。これを手で回転させることによって、ギアの付いたシャフトが回り、前輪を駆動させる仕組みである。
 もし、彼が健常者であるならば、足を使ったはずである。取っ手をべダルに変更するだけで、足でも踏むことができる。
 ニュールンベルグ図書館の資料によると、彼は、1689年10月24日に57歳で亡くなっているので、この三輪車を考案したのはそれ以前ということになる。

 日本に目を向けると、先にも触れたことだが、鎌倉時代に三輪車の構造をもつ模型のような車が出土している。従来、三輪車の構造をもつ車は、江戸時代まではその例がなく、中世までは並列の二輪車(牛車)しかないとされていたのである。

 正安元年(1299)の『一遍聖絵』には、四天王寺で特異な車輪付きの小屋が描かれている。四隅に小さな中実車輪が付いていて、どうやら一人乗りであるらしい。いつでも簡単に移動できる屋根付きの四輪車である。移動はもっぱら車から降りて、手で押したと思われる。或いは、足の無い障害者が使用したのかも知れない。そうなると押してもらったのであろうか?棒で地面をかいて自分の力だけで移動したのかもしれない。

 その他、車なのか舟なのか判断に困るような、からくりも江戸時代に出現している。中国風の衣服をまとった乗り手が舟型の三輪車を繰り出している。中国から伝来した乗り物なのであろうか?それとも日本独自の乗り物か?よく分からない。これは、1730年(享保15年)『からくり訓蒙鑑草(3巻)』多賀谷環中仙作に「陸舩車」 という名前で載っている。それから2年後の1732年(享保17年)には、やはり舟型の三輪車が現れている。陸舩車の改良型なのであろうか?こちらの方は動力にペダルクランクを採用している。(「新製陸舟奔車之記」滋賀県彦根市立図書館所蔵)

『からくり訓蒙鑑草』多賀谷環中仙 享保15年(1730) 復刻版

『からくり訓蒙鑑草』多賀谷環中仙 享保15年(1730) 復刻版

 これら舟型の乗り物を自転車の範疇に入れることは、系統的な継承性等から判断して疑問が残るところであるが、広義的には自転車なのかも知れない。学識者の判断に委ねたいと思う。

 松平文庫(松平宗紀氏蔵・福井県立図書館寄託)の「御用日記」(文久2年2月6日条)に、自転車と思われる記述がある。文久2年と云えば1862年である。
 その資料には次のように書いてある。
「権六(佐々木権六)罷出ビラスビイデ独行車相廻り組立出来靭負(家老、中根雪江)も罷出御馬場辺御乗試被遊候」

 これは当時、松平春嶽が、江戸霊岸島の藩邸で独行車という乗り物に乗った様子を記述したものである。
 はたして、この独行車は如何なる乗り物なのか?自転車なのか?馬車なのか?そしてビラスビイデとはどのような意味なのか?ヴェロシペッドの意味なのか?独行車の図や絵が出てくると面白いのだが。いまの段階でこれを自転車と断定することは出来ない。

 どうやらミショー型自転車の到来は、明治まで待たなければならないようである。確たる当時の資料や現物が未だに発見されていないからである。

参考資料:

●『図譜 江戸時代の技術(下)』菊池俊彦編 恒和出版 1988年

●『からくり訓蒙鑑草』多賀谷環中仙 享保15年(1730) 復刻版

●「江戸中期の自転車 陸舩車」 真船高年
   日本自転車史研究会機関誌 ”自轉車”42 
 昭和63年9月15日発行

●『産業考古学会総会および全国大会の研究発表講演論文集』
 産業考古学会第26回(2003年)総会
 「1728〜1732年のわが国における自転車の発明」 梶原利夫

●「春嶽 自転車乗り回す」 平成13年8月3日付 福井新聞

●「自転車のルーツは日本? 1732年、彦根藩士が完成」 2003年7月6日付 毎日新聞

●『いわゆる「陸船車」の歴史的考察』 増田一裕 資料館研究紀要 第4号
 埼玉県本庄市立歴史民俗資料館 平成20年3月3日発行