由緒と沿革
                                 
                                 
                                  

                                  

蓮登山自安寺は徳川中期寛保二年(西暦1742年)千日前刑場横の地

日蓮宗の門跡寺院(大本山本圀寺の末寺)として、慈光院日充上人(本圀寺歴代

上人)により創建され、境内に本堂・妙見堂・鬼子母神堂・浄行菩薩堂・清正公

神祇堂・秋山白雲霊神堂・法相日前大菩薩堂・絵馬堂・鎮守堂・三光堂・位牌堂

・鐘楼堂および能勢妙見遥拝所を構えていました。                

その賑わいは「江戸浪花百景」の一つとして数えられ、その風景は「自安寺・妙見宮

・朝参の図」として、長谷川貞信筆の錦絵となり、現在も保存されています。

また、「自安寺妙見堂午日詣」と題し、自安寺晩鐘の図として「江南八景」の一つにも

数えられて
いました
           
千日前の妙見さん」の名前で親しまれ、とくにその縁日の「午の日」には、現在の

湊町付近から日本一付近まで「夜店」が出店して、千日前一帯は賑わいました。

また、この「夜店」は「大阪の三夜店」の一つに数えられ昭和初期まで続きまし

た。            

明治三年(西暦1870年)、千日墓と刑場廃止後は千日前歓楽街となり、その

真ん中に自安寺は位置するようになりました。            

ことに明治十七年(西暦1884年)以降、南地五花街(宗右衛門町・九郎衛門

町・坂町・櫓町・難波新地)が華やいだ頃からは妙見さんも賑わい諸堂の提燈に

も花柳界の人々の名前がたくさん連なっていました。                 

大阪ミナミの繁栄と共に、近隣の人々が毎日仕事の前後に「無病息災」・「妓芸

上達」・「商売繁盛」など、それぞれの願いをこめてお詣りされ、「千日前の

妙見さん」として日夜賑わい、その当時は一日二十四時間中門があいており、

いつでも参詣できました。            

その間、五度にわたる火災により、境内は狭小となってゆきますが法燈は絶える

ことなく、法華経の広宣流布の場として栄えました。 
                                                                               
ことに、日蓮上人像妙見大菩薩像は、ときの住職により、運び出されて火災の

難をのがれ、現在も御威光あらたかなものがあります。

その後、昭和四十二年(西暦1967年)大阪市都市計画により、現在地

(旧二ツ井戸)へ境内を移転し、その容貌ビル建築へと変遷してゆきます。

しかし、いまでも一歩境内へはいると、そこには昔変わらぬ「妙見さま」がまって

おられます。