エ ッ セ イ


−神より授かりし能力と自然の調和について−

(20年後の企業や社会を考えるとき)


 「ひと昔」という概念は、急激な時代の変化の前で、どう変わったのであろうか――。現在において、「時間」というものが時代に与える影響を考えたとき、二〇年の月日が及ぼす作用は、これまで以上により強烈な変化を導き出すことであろう。そのなかで、二〇年後の社会や時代を予測することは、大変困難な事柄ではないだろうか。

 しかし、二〇年という月日の後に現れる状況は、これからの一歩一歩の積み重ねであることは事実である。当面の問題を確実に処理していくことは、未来の方向を見い出す有効な手段となり得る。そういう意味で、これから各所で取り上げられると思われる大きな課題として、かつ企業のあり方と社会の風土を確実に変えるであろう方法として、『能力主義』に関する事柄を述べていきたいと思う。

 能力とは、生まれながらにそのものに与えられた、神からの授かりものであるのか、そのものが努力によって養うべきものなのか、その両者によるものであるかは定かではない。しかし、現実に人間には、能力の差が存在している。

 人類の歴史が階級闘争の歴史であったかどうかは知らないが、その時代に適した能力を持ち得たものが、歴史をつくってきたことは事実である。いやヒトに限らずとも、自然界に存在するどのような生き物にも、同種のなかに能力の差が生じている。そしてその差は、それらの種の進化の方向にさえ影響を与え、長い期間の後に現れるであろう変化への可能性をも、秘めているのである。

 能力による競争とは、自然界においての種の保存と良き方向への進化の過程であり、それ自体、自然な姿として当然存在すべき事柄なのである。

 しかし競争がある反面、共存が必要なことも自然界を見つめれば明白となる。共存もまた種の保存と繁栄に欠かせない要素と言える。そして自然は、共存と競争を交差させ、そのバランスの均衡と欠落によって、あらゆる種族に繁栄と衰退を生じさせてきたのである。

 人間界、というよりは産業界というべきであろうか、いまそのなかに能力による競争原理の導入と徹底がはかられていると聞く。これまでも、その様な競争が存在していたのであろうが、大戦後からバブル時代の終了までの数十年、競争より共存を重視してきたことは事実である。しかし、高度成長の終わりとともに、共存偏重の弊害が一気に表面化し、競争へと傾斜していく結果となる。
確かに高度成長の時代、人々は豊かさを求め、終身雇用のもと企業に忠誠を誓った。企業は社員に対して個性を求めず、協調性を重視し、全社一丸となって働くことを求めた。

 しかし、時代は変化する。成長力が低下し社会が成熟化してくると、共存への傾斜が問題化してくる。受験戦争に代表されるそれまでの能力競争は、実際はその上のレベルの共存社会を維持するために、行われてきた競争システムであった。それらは高度成長を支えたが、時間の経過とともに、問題を浮き彫りにした。個よりも集団を尊重する教育制度、学歴偏重の社会風土は、結局未熟な人間をつくり出し、低成長の成熟社会の将来に、閉塞感をもたらしたのである。
また日本企業や社会は、これまで内に共存を外に競争を追い求めてきた。そして、自然において、繁栄を継続させるために必要である、その共存と競争のバランスを長期に悪化させたことにより、バブルの発生やその崩壊、横並びと責任の不在、数えきれないほどの規制、政治の没落、現企業内部の様々な問題、そして通商問題だけにとどまらない、外国と日本の関係の悪化を生んだのである。

 いま、その傾斜したバランスは、あらゆる意味で修正される方向へと向かっている。能力主義の導入がそうであり、政治の終わりなき再編がそうであり、企業の国際化や貿易黒字の減少がそうであり、内外価格差の縮小や規制緩和の流れがそうである。
このバランス修正の動きは、しかし新たな逆方向へのバランスの悪化を生む恐れがある。能力主義への偏重は、企業への忠誠心を失わせ、その評価制度によっては、人々のやる気さえ失わせてしまう。競争と共存の関係を良好に維持することは、繁栄を継続させるために、非常に重要な事柄なのである。

 競争重視へと向かっているいま、能力主義を秩序良く、そしてバランス良く行なうために、その導入にあたって、必ず行なわなければならない事柄がある。それが正しく機能するならば、能力主義の導入がほぼ成功したも同然と言えるのではないだろうか。それは、適した人材を適した職場へ配置することができる「柔軟で確かな人事制度」の導入である。

 当たり前のことを言っていると思われるかもしれないが、これこそが最も重要な事柄である。ある意味では、能力給を導入しなくとも、この制度だけうまく機能すれば、驚くほどの効果が生まれると言える。なぜならば、どのような能力や特技を持った人でも、その能力が行う仕事に合わなければ、何の効果も上げはしないし、その力がうまく仕事に合えば、すばらしい効果をもたらすからである。それはある程度の給与が保証されるならば、高額な金額を与えられなくとも、発揮される効果である。

 野球選手は高額な年俸を得ているが、彼らはもともと野球が好きであり、その才能を生まれ持ち、養ったのである。各自が持ち得るそれぞえの能力は、それが適した仕事に合致したときにすばらしい力を発揮する。というよりも、発揮せずにはいられないのである。彼らはそれを行うことに幸福を感じる。彼らが所属する団体に貢献する。そして結果、お金を手に入れるだけのことなのである。確かにお金は重要であろう。だが決して給与を一番の目的として、能力を発揮しているわけではないのである。

 これは、会社員にも当然あてはまる。適した人材を適した部署へ配置することは、その人の幸福と、所属する企業の成長への一歩となり得る。そしてここに、正しい評価制度を持つ能力給制度が用いられれば、求められるべき能力主義の導入が完成するのである。

 高度成長を支えた多くの企業は、これまでも適材適所に努力してきたと言うかもしれない。しかし、それには正当に判断できる上司の存在が必要であろうし、それ以上に社員からの要望により、実施できる柔軟で確かな人事制度が必要であった。現状においては個人の意志は重要視されていないのが、現実ではないだろうか。

 また、適材適所をそれほど重視しなくても、能力給制度は導入できると言うかもしれない。しかし、適材適所を徹底せずに、能力給を導入しても、仕事の向上においてはほとんど効果を発揮しないであろう。企業にすれば、多少の給与減らしに成功したにすぎないのである。それが目的ならば、それはそれで良い。だが、企業に少しでも活力を与えようとして、能力給を用いるのであるならば、適した人材を同一職場に配置するという基本があってこそ、その後の競争が効果を発揮するのであって、極端でかつ悪い言い方かもしれないが、「烏合の衆」に競争原理を取り入れたところで、そこから何が得られるであろうか。結果は明白である。能力主義にとって、適材適所は最も重要な要素だと言えるのである。

 また、全ての仕事、全ての職場に能力主義が有効であると考えるかもしれない。しかし、日常の定型化された作業がほとんどを占める職場や、誰が行なってもそれほどそん色のない仕事について、能力給制度を用いるべきではない。用いたところで、目に見える形で効率が上がるとは考えにくいし、逆に不公平が生まれる恐れがある。そのあたりの見極めは重要であり、ダブルスタンダードの考え方を、純粋な意味で徹底すべきであろう。能力給をどこまでも追い求めるということは、結局、「職種別給与体系」に至るしかないのである。

 二〇年後の企業が、そして社会が、どのようなものになっているのか、確かなことは分からない。しかし、その時代に繁栄を維持しているものは、これから続く大競争時代に、打ち勝ったものであろうことは確かである。

 共存への偏重が弊害を生む。どのような世界にも、秩序ある競争と共存、そしてそれらのバランスを保持することが必要である。そこから衰退が生じるかもしれない。しかし、真実の繁栄も現れるであろう。

 最後になるが、どんな人間も、そのものが持つ能力の何割かは、神からの授かりものであると私は考える。また、努力によって養った能力ですら、元をただせば神の影響を感じる。神は行動のため、それらを与えた。それが神の意志ならば、自然の姿として、そのものへの報酬は、金額の多少によるより、立場と責任によるべきではないだろうか。能力による差を金額に表したところで、結局不平等が解決されるものではない。ただ、現在のような経済活動の前で、それを言ったところで仕方のないことかもしれないが……。

 ただどちらにしても、企業に働くものや社会の人たちが、これからの将来を真剣に思うとき、個の尊重と集団の利益、競争と共存のバランス、それらの調和を最優先に考えるならば、二〇年後の企業も日本の社会も、より良いものになっているであろうことを、私は信じてやまない。



 


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