| 時間はどんな人にも同じように訪れ、同じように去って行きます。それは年齢や性別、置かれている状況に関係なく、同様にそうだと言えます。しかし時間に対する人々の感じ方、価値のとらえ方は、その時々によって大いに違っているのが現実ではないでしょうか。 私には、一歳半になる子供がいますが、娘の姿を見ていると、子供にとって「時間」とは、最も大事なものの一つなんだと、気付かされることがあります。一つの細胞が分裂を繰り返し、母親のお腹から外の世界へ現れ、人間として成長して行く過程のなかに、一秒、一分と確実に刻まれて行く「時」が及ぼす作用は、目には見えない「驚異の力」を私に感じさせずにはおかないのです。 生まれてすぐの赤ちゃんは、ミルクを飲むことしかできません。その後、時間の経過とともに視力が向上し、首がすわり、寝返りをします。筋肉が発達していくことによって、体を起こして座ったり、歩くようになります。 また、体の発育と並行して脳も発達します。何気ない仕草や行動の繰り返しが、脳を成長させて行きます。笑ったり自分を主張したり、また親の行動を真似ることや手探りに考えることによって、多くを学び、心を形成して行きます。それらは急にそうなるのではなく、毎日の絶え間ない活動とその繰り返しが、成長を生んで行くのです。それは時間を有効に使うと言うより、時間の全てを用いて成長を続けていると言えるのではないでしょうか。 子供のそんな姿を見つめ、自分に重ね合わせたとき、私の胸にある想いが生じました。 「ひと月前とひと月後の自分、一年前と一年後の自分、そのなかに漠然とした老化以外、変化を感じることができないとしたら、それは悲しいことではないだろうか。年齢を重ね、習慣に埋れた生活のなかでは、時間の経過を早く感じたとしても何ら不思議ではないと思っているとすれば、生を受けた人間としての怠慢ではないか。人は子供のころの時間の用い方を、心と精神の向上の有効な方法を、生理的な成長が止ったときに忘れるものなのか。もしそうならば、時間の「密度」について、再度認識する必要があるのではないか――」 ローマの哲人「セネカ」は『人生の短さを嘆く者のほとんどは、時間を浪費しているに過ぎない。時を有効に利用し良く生きたとすれば、人生は十分に長い』と言っています。 生き方が問われている時代、生涯学習が取り上げられて久しい今日、もう一度「時間の価値」について、考えてみるのもいいことかも知れません。毎日、何気なく眺めていた娘の姿のなかに、そんな「メッセージ」を見たような、そういう気がしたのです。 |