エ ッ セ イ


−心と心のはざまで−


 以前、シベリア抑留者についての番組が、テレビで放映されていた。それは、一人の人間を通して語られる、目を覆いたくなるような、抑留生活に関するすさまじい映像であった。――極寒のなかの強制労働、死に対する恐怖、そして人間にとって最も恐ろしい、「絶望」だけが支配する日々――それらが次々に画面に写し出された。

 番組も終盤をむかえ、抑留からかろうじて生き残った一人の人間が、再びシベリアの地に向かう場面となる。

 彼は両手にいっぱいの花束を持ち、死者の名が刻まれた木片を抱え、万感の面持ちでその地に立った。そして――瞬間、ひざをガクッと折ってそこにひれ伏し、突き刺さるような声をあげて、泣きだしたのである。

 目からは大粒の涙が次々にあふれ、ほほの小さいしわが、キラキラ輝く水に覆われる。地面には幾つもの黒い点が、悲しい模様をつくりだしていく……。しゃがれた声で、誰かの名前を呼ぶ。また違う名前を叫ぶ。そして「帰ってきたよ……やっと帰ってきたよ……」と顔を土にこすり付け、何度も何度も息を吐き出したのだった。

 私はそれを見た瞬間、急にこう思った。今となっては何十年もの過去の出来事を、私などには「悲しい物語」としか感じることのできない、想像も及ばないその出来事を、画面のなかで泣き崩れているこの人の脳裏には、いま繊細に写しだされている。その苦しい運命を、再びはっきりと体験している。――《凍えるような夜、身を丸くして眠った堅いベットの感触。あれだけ希望を持とうと励ましあった、友人の死。祖国へ、もう一度祖国へと歯を食いしばった願い》――それらの体験が、髪が少なくなった、老いた小さい頭の、その骸骨のなかに、いま完全に描かれている。体はここにいながらも、心はあの時代の真っ只中に、いま戻っている……。

 そう思った瞬間、私の体が震え、心が波打ち、目から一筋一筋と涙がこぼれ落ちた。なぜなのか理由は分からない。ただその時、心が大きく動いて、何かが胸に押し寄せてきたのである――。

 「悲しみは移るものらしい」とは、シェイクスピア劇のセリフである。私にも実際、悲しみとは移るものだと思える。いや、悲しみだけではない。大きく心を動かした「喜び」「怒り」「悔い」「恨み」「くやしさ」など、あらゆるものが移るのだと思う。そしてその「心の揺れ」が、大きければ大きいほど、ほかの人の心に共鳴し、多くの心を激しく揺さぶるのだと、私にはそう思えるのである。



 


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