| これから書こうとする事柄が、一般にいう「学び」にあたるか、私には分からない。ただ、いま言おうとするそのもの≠ェ、人間に学べ、知り得るものであるならば、学ぶという行為のなかで、最も大事なもの――と言えると思うのである。 デカルトに「我思う、故に我在り」という有名な言葉がある。よくこれには、《自分がものごとを考えている以上、その考えている自分は、間違いなく存在している――》などの分かりにくい説明が付加されている。 しかし、私はこの言葉によって、恐怖のふちから立ち直るきっかけを得た。それは思い出すだけでも、体が震え、息苦しさを覚えずにはいられない、恐ろしい体験であった。そして事実、デカルト自身もこの言葉(真理)の発見によって、精神的危機から救われた……と聞いている。 × × × 七年ほど前から、何かに駆り立てられるように、「哲学」に興味を持つようになった。以前から、人間は何のために生きるのか、何を指針に生きるべきか、などと漠然と思ったことはある。しかし、それらの問題を、それほど真剣に考えようとはしなかった。だが、学校を卒業し、社会へ出て年齢を重ねていくうちに、何か生きるための指針となるもの、支えになるものが、どうしても必要だと感じるようになったのである。 それは、自分が行動を起こす時に、どう行うのが最も正しく、より善いものであるか。どう考えるのが本当に正しいことなのか。そしてその答えが出たのなら、どうすれば勇気を持ってそれを実行できるのか。などの、確実なる手引きとなるものである。 それをどうしても見つけたい。いや、見つけなければならない、と切実に感じるようになったのである。 まず私は、よく通っていた図書館へ行き、『哲学のすすめ』や『初歩の哲学』などの本を、数冊借りた。そしてそれによって、「哲学とは何か――」という、基本的な考え方は理解できた。しかし、必要とする「どう生きるべきか」との手引きは、ほとんど身に付きはしなかった。 次に私は書店へ行き、いろいろな本を手にした。さまざまな先人たちの哲学書を、次から次へと読んだ。そしてそこで、ある一人の人間を知った。それは、「プラトン」が描いた『ソクラテス』という偉大な人間と、その『生きざま』であった。 私はその人の存在を知った時、何とも表現のしようのない感銘を受けた。「人間、これほどまでに、美しく、強く、正しく、生きることができるのか……」と。そして彼の考え方、生き方、根本になっている哲学を、どうしても知りたいと思ったのである。 その後、一冊、一冊と「ソクラテス」に関する書物を読んでいった。いや、それだけではない。あのすばらしい時代ギリシヤ≠フ優れた先人の哲学を、貪欲なまでに学ぼうとした。そして、それらによって、自分がいままで持っていた価値基準が、根底からくつがえされていくのを感じた。それと同時に、いままで生きてきた同じ世界を、まったく新しい、そして力強い「思考」によって見ることができるのか――と、恐怖とも感動ともつかぬ感覚に、体が包まれた。私のなかの何かがガラスが粉々に砕けるように、音を立てて崩れていったのである。 このような感覚を味わったことがあるであろうか。いままで何十年という歳月をかけて養った価値基準が、間違いであったと認めざるを得なかった時に感じる、恐ろしいほどの失意を――。そして、完全に自分の考え方を違う方向へと転換しなければならないことへの苦しみを――。 誰もが議論などにおいても、決して自分の考えが過っているとは、認めたがらないものである。なぜならば、自分の非を認めるには多くの勇気が必要であり、一時的にも、自分を否定することにつながるからである。 しかし私は、その時自分を否定しなければならなかった。自らの価値観を、変えなければならないと痛感した。そして、その時を境にして、彼らの偉大な哲学に、影響されていくようになるのである。 ただ、誤解のないように言うのだが、私自身はそれほど他人の考えに、簡単に共鳴するような人間ではない。何か少しでも納得する部分があると、その人の考えや宗教などに盲信するような、そんな人間ではない。いつも何度も自問自答を繰り返し、自分の能力のできる範囲内で、常に論理的にものごとを判断していく、そんな人間なのである。 しかし、そういうタイプの人間でも、いやそんな人間だからこそ、ソクラテス哲学に没頭していったのかもしれない。 その後も私は、彼の哲学の流れをくむ、多くの哲学者に関する書物を読んだ。「アリストテレス」「セネカ」「アウレリウス」「デカルト」などの哲人に、大いなる尊敬の念を抱いた。そして、彼らの考えを総合的に判断・理解し、私なりの考えを加味して、まとめ得た事柄を、生きる指針として哲学ノートに綴った。そして、それをできるだけ実行しようと努力したのである。 少し長くなるが、そのノートの中に書いたものを、いくつか記してみたい。 × × × ◎人間の生きる究極の目的は幸福にある。 そして、その幸福とは、真実に「正しいもの、美しいもの、善いもの」を認識し、それらを理解した精神(魂)の状態と、その精神にしたがって、生きている状況である。 ◎幸福の意味を言い換えてみるならば、完全なまでの「精神的満足」であり、人間はみな、無意識ではありながらも、その「精神的満足」を得るために活動している。それは最も動物的な、食欲や性欲などにも当てはまるであろうし、より人間的(理性的)な高度な欲求においても、そうだと言える。 また、その満足を得るために発する欲求は常に「正しいもの、美しいもの、善いもの」に対してである。なぜならば、人間の営みの全てが、自然の結果として、より善いものを求めるように行われているからであり、誰も自ら望んで、悪いものを求めることはないからである。 だが、何が正しいか、美しいか、善いか。との判断は、多くの場合いろいろな意見に別れる結果となる。それ故、悪いことを正しいと思ったり、善いことを悪いと判断するなどの混乱が、必然的に発生するのである。 ◎しかし「正しいもの、美しいもの、善いもの」をあらわす基準は、実際は無秩序に存在しているのではない。自然のなかに無秩序なものなど、ひとつもないのである。よく偉大な先人たちが口にした「真実(普遍的真理や最も正しいこと)はひとつ」なのである。ただ、正しくない方向から正しい方向への、その方向性の線上にある、どの部分の事柄においても、何%かの真実(正しさ)が含まれているため、真実がたくさんあるものと、誤解するのである。 ◎「正しい、美しい、善い」とは、全てにおいて同一の意味をあらわす。なぜというに正しいことは善く、善いことは美しく、美しいことは正しい、と言えるからである。 また逆の、不正、醜い、悪いなども同一の意味を持つ。 ◎本当に「正しい、美しい、善い」ことを認識するには、それらに対する豊富な知識が必要である。なぜならば「正しい、美しい、善い」を正確に判断する、根本的な基礎となっているものは、人間が生まれながらに持つ「本能的直感」によっている。そして、この《神的》なものが、多くの知識に裏付けされて理論を形成し、結果、ものごとの善・悪を判断するからである。これは、単純なものは少ない知識で、複雑なものは多くの知識に助けられて、判断されることを意味する。そしてそれは、知識(経験も知識である)こそが善・悪の判断に最も重要な要素であることを示すのであり、それ故、何ごとにおいても確実なる真理(真理こそ正しく、美しく、善いものであるが故に)の探求を続ける必要が生じるのである。また、「デカルト」が言う唯一平等に配分されたものとは、この「本能的直感」を指しており、そしてこのものの存在こそが、人間より偉大なものを想起させるのである。「ソクラテス」が言う《内なるものに我はしたがう》の「内なるもの」も、これにあたる。 ◎人間にとって最も恐ろしいことは、何もそのことについて、知識を持っていないにもかかわらず、自分は知っていると思っている「無知」であり、これこそが、いつも過ちをつくりだす。 無知の典型的な例は、子供が医者を嫌うごとくである。治療の苦痛だけが目につき、体に対する「善さ」が分からない。明らかに知識の不足からくる過ちである。そして無知の最大なるものは、後に貧困や後悔、不安や倦怠などを伴うにもかかわらず、目先の快楽におぼれ、動物的欲望(財産欲、性欲、食欲、物欲、名誉欲など)をどこまでも追い求める行為である。そしてこれによって、安定した精神的満足(幸福)を得たという例はない。 ◎結局のところ最も重要なことは、多くの知識を身につけ、正しく判断し、正しく行動すること。自分の精神(魂)をより善く、美しくすることに尽きるのである。 そして、その魂の状態とは、生きていくために必要な部分以外の、余分な動物的欲望を捨て、勇気と人間愛を持ち、正義を志し、節制し、そして知識を積んで知恵を高めていくこと。「徳」によって自分を支配すること。それにほかならないのである。なぜならば、徳を持つ人間は、自分も、近くにいる人々にも、幸福をもたらすであろうし、また、人間の持ち得る最大の魅力をも持つからである。そしてこの状態こそが精神に満足を与え、人間としてより善く生きている、との幸福と、喜びを与えるのである。 × × × このような事柄が、そのノートに書き記されていた。 私はこれらをよく理解し、実社会においても着実に行えるよう、努力を重ねた。自分を善く見せようとの気持ちを、「よく見せるのではない、自分が善くなるのだ」と言い聞かせ、それを押さえた。そして毎日、それらの事柄を心の掟にした結果、揺るぎない信念を持つことができた。見違えるほど自分が善くなったのを感じた。比較のしようのないほど心が強くなったのを知った。――そして、哲学ほど人間に必要なものはない、と確信したのである。 ……しかし、そのようなすばらしい日々もそう長くは続かなかった。数か月程度であったろうか……。そしてある時、破局を迎えるのである。 それは、次のような状況であった。 私はその後もこの世に存在する「生きる指針」を知りたいと思い、「四聖人」(人類の教師と呼ばれる人々で、ソクラテス、釈迦、孔子、キリストを指す)の書物を手にした。そして、それらの書物をひと通り見通した結果、その導き方は違えども、ほとんど同じように「正しく、美しく、善く」生きることが大事である、と書かれているのだと知った。 しかしいままで学んできた「生きる指針」というものは全て、それらの根本理念に、どうしても人間を超えた偉大なものの存在が、必要であることを指し示していた。そしてそれは哲学(ある近代哲学は含めない)についても言えたのである。なぜならば、全ての「正・不正」「美・醜」「善・悪」の基準になるものは、前にも述べた「本能的直感」によっている――例えば何かを美しいと思う。しかし、なぜそれが美しいのかは分からない。何かを正しいと思う。だが、なぜそれが正しいと思うのか――という究極の根本原理は説明できないのである。それは、本能的直感が判断しているものであり、それが絶対に正しい基準であると、自然に思うからである。そしてそれは、誰かに教えられたようなものではない。人間が自然に生まれながらに持つものであり、もし「神」なる絶対的価値を持つ完全なものが存在するなら、そのものによって、元々植え付けられたような、人間の独自の力を超えた、そんなものなのである。 私は、自分の知り得た事柄が、確実に正しいという証明を得るために――というのは、本能的直感が、絶対的な価値判断を持つもの(神など)から授かった基準でない限りは、確実なる「正」の方向性を見いだせないがために――「デカルト」もしたように、人間を超えた「完全に正しい価値基準を持った(神のような)もの」の存在を、証明する必要があると感じた。そして、それによって、自分が行った判断が、真実正しいものであることを、理解しようとしたのである。 しかし、苦心を重ね、あらゆる方面から考えをめぐらしてみても、的確なものを見いだすことはできなかった。多くの人々は、くだらない理屈をつけているようだが……。 こうして私は、大きな穴に落ちていく結果となる。それは先にもふれたように、あるものを正しいと思うが、それがなぜ正しいかが分からない。「正しいと理解するから正しいのだ」と自分に言う。だが、「それをどうして理解したのか」とまた自分に聞く。「生まれながらに持つ直感と、それによる論理によって判断した」と答える。「その直感は本当に正しいのか。――いったいどこにあり、どこから来たのか。どうしてそれを持つことができたのか」とまた疑問が浮かぶ。なぜそう思うのか。なぜそうなのか。なぜ、なぜ、なぜの連続である。もう、何が何だか分からない。日常のささいな事柄すら、判断する自信が持てない。いつも自分と自分が戦う。暗く騒然とした日々が続く。――そして、最後には、世のなかに確実なものを、何も見いだせなくなってしまったのである。 毎日が恐ろしいほどの恐怖に包まれる。何が本当なのか? 何が正しいのか? 私は誰で、その問いを出している私は誰なのか? 何が何なのか? ……大声で叫びたくなる。 《もう、何も分からない。自分の正体すら分からない。自分は本当に、存在しているのか。存在しているなら、その確証が欲しい。確かなものなどあるのだろうか。何もかもが分からない――》 言葉に言えないほどの恐怖である。体がガタガタ震え、頭が重く、何かにギュッと締めつけられる。毎日が苦しくてしようがない。何も判断できない。完全にダメ人間である。昔から持つ神経症が再発し、精神安定剤と睡眠薬の日々が続く。幸福を求めるために哲学を志し、結果どうしようもない状態に陥ってしまったのである……。 そんな日がいく日か続いた。重くよどんだ日が続いた。しかし私は、その苦しい日々を自分の持ち得る思考の全てによって闘った。何とかこの状態から抜け出そうと、最大限の努力を続けた。――そして、それから数か月後のある日、光明らしきものを、見いだすことができたのである。 それは「我思う、故に我在り」であった。あの「デカルト」の言葉であった。その意味を本当に理解した時、ようやく出口が見えたのである。 その言葉は《自分がものごとを考えるから自分が存在している》ということではない。それは、単なる二次的な意味でしかなく、本当の意味は、《全てのことを疑い、全てのことを否定していく。自分自身の存在に対しても疑い、否定する。その状態において否定している自分は、必然的に何ものかでなければならない。その否定している自分は、少なくとも、確実に存在しなければならない。なぜならば、私が私に自分の存在の否定を説得しているのであり、非存在なものが、非存在なものを、否定できないからである。故に私は存在する。絶対なる価値基準は証明できなくても、私というものは何らかの形で、必ず有る。その存在は真理であり、真理はまた存在をあらわす。そして確実に私は存在しているのである――》ということを理解したのである。 私も彼のように、自分の存在が確認できたことを確実なる原理とし、そこから順番に、自分の肯定するものを認めていった。そしてようやく、立ち直っていったのである――。 こうして、苦しみぬいたなかから光明を見つけだし、一度崩れた思想を立て直し、そして、第二の自分の思想をつくっていった。 それは精神(理性)が求める真理への探求にも、可能・不可能があり、可能なもの、不可能なものを見分けることも、また真理を発見することだということ。そして、それ以上は何も分からないという事柄を見つけ、それで精神に満足を与えることが大事だということ。また、人間には決して理解できない、人間を超えたもろもろの存在をも、素直に認めるということが、必要であるということ――それらを知ったのである。 × × × 最後に、「シェイクスピア」劇『ジュリアス・シーザー」のセリフを引用したい。 シーザー暗殺後、ローマを追われた哲人・ブルータスに、男が話かける……。 「ブルータス、こんなささいなことで、何を浮かぬ顔をしているのだ。君の哲学はどうした。何の役にも立たないのか、ちょっとしたことにいちいち悲しんでいるようでは――」 「何を……俺ほど悲しみに耐えるものはおるまい。妻が……ポーシャが死んだ……」 「えっ……奥さんが……」 「そう……死んだ…………」 × × × 哲学とはいったい何であろうか。悲しみにすら、打ち勝つものなのであろうか。そして実際、人間に学び得るのであろうか。――私にはまだ、その答えが分からない。 しかし、私が哲学を志して数年が過ぎたいま、私自身の心の中にあった、多くの迷いや疑いを、打ち破ってきたのは、事実である。そして、まだ強固とは言えなくとも、生きる指針を持つことができたのも、また事実である。 「人間がそれを学び得るか――」 その答えは、まだ見つけられない。だが、迷いを持つよりは、正しいと思うことに全力を注ぐべきであり、いま私ができることは、よりよく生きるために、努力を続ける。より正しく生きるために、考え続ける。そしてこの人生を、より美しく生きるために、学び続ける。 いまのところ……それしかないのである。 |