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阿蘇の歴史
阿蘇の旧石器時代
ヤッホー!・・・・。ヤッホー!・・・
 3万年前から阿蘇・球磨地方には人が住み始め、九州には超古代に山の民文明が栄えており、日向灘の海人文明と共存していたといいます。
 阿蘇山の噴火がおさまった旧石器時代頃、旧石器人は白川、菊池川、筑紫川、大分川、大野川、五ヶ瀬川、緑川等の四方・八方の各川筋から源流に向かってマンモス、オオツノシカ、猪および兎等の獣や川魚を追って、溶岩の固まりが露出し火山灰が降り積もっている木が少なく草原に近い野原を踏みしめながら阿蘇外輪山に登ってきたことでしょう。

そして水の引き始めたカルデラ湖に向かって雄叫びをあげたと思います。
 旧石器時代後期(2万4千年前〜1万3千年前)の遺跡としては象ケ鼻遺跡、木落牧場遺跡、合戦群遺跡、長倉坂遺跡、大観望遺跡、湯浦遺跡、中園遺跡、狩尾牧場遺跡、阿蘇牧場遺跡および二重峠遺跡等 外輪山の湖水淵に沿って存在しています
 
古代人も現代人と同様に眺めのよい場所で湖水や山並みを見渡して暮らしていたようです。石器を片手に満足そうに獲物を担いでいる姿が目に浮かびます。

 
この中で、湯浦遺跡は北西部大観望崖下のカルデラ内にあります。ここでは1万3千年前の後期旧石器時代の石器が見つかっています。
又、
東荒牧遺跡、中園遺跡もカルデラ内にありました。
 ・2万年前 北外輪山奥のすそ野 有明海に注ぐ杖立川・筑後川源流域に広がる小国町下條遺跡から、旧石器時代のナイフ形石器、台形石器および尖頭器が出土しました。石器の材料は下筌・松原ダム付近で採掘する黒曜石で製造されています。

・1万8千年前 阿蘇町大観望遺跡からは、大野川流域で産出する流紋岩製の剥片尖頭器が出土しています。


象ケ鼻D遺跡群から南東方面の景観です。はるか右上に根子岳がぼんやりと見えます。左手は山並みハイウエーの登り口 城山展望台付近になります。北山は1年中 風が強く吹いています。小型風力発電に向いているのではないかとおもいます。5月初旬、この日は曇りでした。
象ケ鼻D遺跡群
阿蘇の北外輪山から、2万3千年もの昔の人が狩り等に用いる黒曜石が採取されたと言うことは、阿蘇に生まれた私に取っては大変うれしい出来事です。
1972年、1995年に発見された阿蘇郡一の宮町中通字北山に所在する標高820mの北外輪山の象ケ鼻遺跡は旧石器時代後期といわれます。象の禿頭にそっくりです。
・約1週間の阿蘇・宮崎地方の旅を追え、明日は相模原に戻る前日(2001年5月3日)、実家近くの北山(北外輪山中央)西側の 象ケ鼻D遺跡に発掘を見学に地元の3人で行きました。発掘メンバーの女性が掘り出したばかりの泥まみれの剥片を見せてくれました。製品はまだみっかっていないようでした。
阿蘇象ケ鼻遺跡で黒曜石の原石が採集され、松橋の曲野遺跡、福岡県朝倉の原の東遺跡、菊池市の伊野遺跡および大分県三重町の駒形遺跡まで広域に流通されていたようです。
この黒曜石は風化が著しいようです。1996年には断層が走っており、ATn層があります。
2万3千年〜3万年前の遺跡です。
ここでは“今峠型ナイフ形石器”、石核、剥片、スクレイパーおよびチップが発見されました。
このところ毎日、雨がちでやっと、この日は発掘日よりの晴天! 皆さん、やる気が出てきて期間を延長して一生懸命 穴を掘っていらっしゃいました。火山灰の地層が見えましたが、どれがAS4か分かりません。ただかなり断層が切断されたり、ずれたり、湾曲もしています。赤土ようで柔らかく掘りやすく見えました。宝物が出ますように・・・・・。
・地層が見えますが、私には まだ区別がつきません
この北山に広がる草原には、子供時分家族や村内の人々と、刈り干し切りに行ったものです。また、帰省した折りに装備なしで小嵐山の後ろから登り黒い山犬らしい野獣にほえられ、一目散に山の斜面を駆け下り逃げ帰ったことがあります。こんど行くときは木の棒等の武器を持っていかないと身の危険があります。
・発掘された黒曜石の剥片です。
岩石的には『阿蘇象ケ鼻産ガラス質溶結凝灰岩』と言われます。(2001年5月)
北外輪山の黒曜石は遠くまで持ち運ばれなかったようです。遠くで見つかっていないだけかもしれませんが。なぜ、重い?もし そうなら製品化して運搬すればよいはず。質が悪いのかなー。私自身 加工作業していないので、何とも言えない。ひょつとして、風が強く取る余裕がなかったかも。今度、阿蘇産の黒曜石で鏃とか尖頭器とか作製してみよう、そうすれば手がかりが掴めるかもしれません。
ご覧のように、付近に水はなく泥まみれの剥片石器です。真ん中の黒曜石は、ここの産地でしょうか?数百メートル先に黒曜石の露出場が見つかりました。行きたかったのですが、革靴履きでしたので、今回は断念。又、今度来たときに見ようと思います。
  • 不純物が少しまじつています。
  • 酸化して茶色のものもあります
・この谷間に、阿蘇北外輪山の黒曜石の産地があります。子供の頃、遊んだ所ですが、黒曜石原石には気づきませんでした
。ここからかなり離れた山奥の黄銅鉱はキラキラしているので持ち帰ったりしましたが。そうそう、北外輪山の崖っぷちには岩松とかがあり、かなり危険を侵して採った記憶があります。ただ、風が強く長時間は滞在できません。盆花も取ったっけ・・・子供時分のことが少しづつ思い出されてきます。
阿蘇の黒曜石産地
  • 阿蘇象ケ鼻
    • 象ケ鼻D遺跡から約2百メートル離れた山並みの谷間付近に黒曜石が露頭しているそうです。
    • 急斜面になっているので軽装では近づけませんでした。夏はマムシがいるかもしれません。
  • 阿蘇冠ケ岳
    • 阿蘇五岳の北西になり、山の中で近寄りがたい場所です。
    • 高千穂町宮ノ前第二遺跡では剥片尖頭器に使用されています。
  • 小国
    • あちこちに産地があるようです。
九州産黒曜石の写真集石器&製作道具写真集
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阿蘇の縄文時代
8千年前の縄文時代草創期、阿蘇カルデラ湖の水は、西部低地の立野付近から熊本平野へ流れ落ち、やがて山麓の黒川・白川の湿地帯を残して水が引いてしまったと思います。
縄文人は外輪山の中でなだらかな崖面をゆっくりと降下しながら山麓の川面まで降りて弓矢でシカ、魚や鳥を獲り、木の実や山菜を採取して土器に貯蔵したりして生活するようになりました。

阿蘇北側の筑後川、矢部川の源流から有明海に至る河川流域には、装飾古墳時代まで超古代文化が栄えていました。阿蘇盆地を源流とする白川、緑川の流域には、BC4500年頃の曽畑式縄文土器を用いた縄文人が住んでいました。

手野等の清水が湧き出る山と川・湿地帯の間を生活の場として鏃、皮剥ナイフそして石皿を製作しました。外輪山崖斜面には、食料となるドングリが豊富でした。現在でもかっての牛馬道ぞいには低木のドングリの木があります。縄文時代後期になると外輪山崖の斜面から、除々にカルデラ低地に生活の場が移ってきました。水が引いてきたためでしょう。

石器時代の高原から→縄文時代の崖斜面そして弥生時代に入ろうとする時代の阿蘇谷/南郷谷への移動です。
■縄文時代早期遺跡としては、次の遺跡が知られます。
  • ケオトシ坂遺跡、象ケ鼻I遺跡、木落牧場A遺跡、小柏谷H遺跡、城山B遺跡、畑中遺跡
  • 琴川A遺跡、下り山A遺跡、折戸遺跡
■縄文時代前期遺跡
  • 扇山A遺跡、鳥聞石A遺跡
■縄文時代中期遺跡
  • 国造神社遺跡、
■縄文時代後期遺跡
  • 合戦群F遺跡、城山A遺跡、下畑A/B遺跡、鳥聞石B遺跡、産神社遺跡
■縄文時代晩期遺跡
  • 泉水遺跡、下り山B遺跡
阿蘇古代文明

■魏志倭人伝(280〜289年 西晋の陳寿が編纂)
  ・白鳥庫吉邪馬台国 肥後説(倭女王卑弥呼考)を発表しています。

  ・魏・呉・蜀の三国志。239年からの10年間の邪馬台国と魏朝−西晋間の国交を記す。
   邪馬台国は帯方郡から1万2000余里という。
   女王が統治するその他の辺境国には、斯馬国・・・フコ国→シヤヌ国→対蘇(ツソ)国→ 
      (蘇 奴)ソヌ国→コユ国→カヌソヌ国・・・奴国が有り南の境界の尽きるところ。その南に狗奴 (クナ)国有りてその官 キクチヒコがおり女王に属さじという。
    ・阿蘇郡長陽村の地獄谷温泉付近では、硫黄が採れるところから、史学者 中堂観恵は、魏志倭人伝に邪馬台国の傍国として登場する対蘇国、つまり蘇対国ではなかったかと推測していたそうです。ここで産出する硫黄を中国に輸出していたそうです。

■隋書倭人伝 (589年 隋は中国統一)
  • 「邪馬台国の近くには阿蘇山があり、理由はわからないものの火を噴いていて、石を空中に噴出する。」と記述があります。
  • 九州阿蘇を中心とした神皇第一代 ウガヤフキアエズ尊の治世が始まり、51代まで続いたと伝えられます。(宮下文献)
  • 天孫降臨の地
    • 古事記
      1. “筑紫の日向の高千穂のクジフルタケに天降りましき”。
      2. “この地は韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此処は甚吉き地”
    • 候補
      1. 宮崎県の高千穂峡
      2. 鹿児島県の高千穂峰
      3. 福岡県の筑紫の日向峠 高祖村クシフル山
      4. 大分県の祖母山
古代
  • (弥生時代〜飛鳥時代〜平城京(奈良)時代〜平安京(京都)時代)
阿蘇の弥生時代(紀元前3世紀初〜3世紀末)
・紀元前100年 倭人の国は百余国に分かれていた。(漢書 地理志)

・紀元前97年〜 第10代崇神天皇の時代に速瓶玉命は国造に任命されました。(国造本紀)

・AD57年倭の奴国の国王は、後漢の光武帝に朝貢し、印綬を受けました。(後漢書 東夷伝)
・184年 卑弥呼は邪馬台国の女王になる。(魏志倭人伝---魏・呉・蜀の三国志。239年からの10年間の邪馬台国と魏朝−西晋間の国交を記す)
・239年 卑弥呼は魏の明帝から親魏倭王の称号と金印を賜る。
・247年 卑弥呼は没し、壱与が女王となる。
・266年 倭の女王 台与が晋に遣使する。(晋書)

紀元前300年の弥生時代頃には、阿蘇谷にも海から山河を越えてやってきた渡来人達により、稲作が伝わり、湿地帯で作られるようになりました。しかし、盆地地形で内陸性気候に近く晩秋から冬期は寒く、霜や降雪により収穫は容易ではなかったことでしょう。弥生時代には竪穴式住居が建てられ後期になると銅製品や鉄製品が普及し始めました。村もできはじめ、生産力の違いにより首長とおぼしき人が出現したことでしょう。
■弥生時代 阿蘇町西湯浦に陣内遺跡
  22軒の竪穴式住居跡です。

■弥生時代中期頃の遺跡としては、阿蘇町西小園前田
  ここでは石包丁が発掘されています。初期の稲作は平野部よりも水が豊富な山間部の湿地帯で始まり、灌漑工事技術の発達とともに平野部へ広まったようです。現在でも阿蘇谷は水田であり、陸稲は見かけません。阿蘇谷は水が豊富?(豊富と言うか九州は台風の通り道で昔は、水害がひどかった。加藤清正の黒川等の治水工事で、少しは大洪水は少なくなりましたが、水はけは、やっと戦後になって改良されたといって過言ではないでしょう)そして、弥生時代後期(三世紀半ば)になって、山麓に村が発生し始めたのではないでしょうか。

■弥生時代後期、阿蘇町小野原(このばる)遺跡
  弥生時代後期の約35軒の村跡が、平成11年秋から発掘されています。家は4m四方、長方形にわかれ、地面を10p〜1m掘り下げた竪穴式住居だそうです。鉄斧が出土してます。

■弥生時代後期の下山西遺跡
  阿蘇町乙姫 34軒の竪穴式住居跡でベンガラが敷かれた石棺、銅鏡、ガラス勾玉、および鉄器が発掘されています。また、免田式弥生式土器も製作されたようです。この遺跡から北2kmの所にある阿蘇鉱山付近からこのベンガラが採掘されています。

阿蘇の古墳時代(4〜6世紀)
・4世紀中頃には、大和政権成立
・413〜478年 倭の五王は中国に使者を送る。(晋書、宗書)
・507年 大伴金村は、継体天皇を擁立。
・512年 県・屯倉を設立する。
・553年 春、阿蘇山上火起きて天に接す。(阿蘇家伝書)
・554年 国造制が充実する。
・589年 隋は中国統一。


5世紀頃、阿蘇の豪族は阿蘇の県主となる。

阿蘇地方には、古墳時代に造築された@前方後円墳、A大型円墳、B小型円墳、C方形周溝墓、D横穴墓、E石蓋土壙・盤間棺等の古墳が6種計87基あるといわれています。一の宮町には、上記6種の様式が造られました。中道古墳群には他地区にはみられない前方後円墳があるところから、阿蘇地方の豪族(首長)も発生したと思われます。
(阿蘇谷)
中通古墳群
  :(前方後円墳である長目塚(前方部石室に女性埋葬、銅鏡、直刀、勾玉及び埴輪)等14基)-----−の宮町中通
■手野古墳群
  :(横穴式石室を持った上御倉古墳・下御倉古墳等)---−の宮町手野
■迎平古墳群
  :(横穴式古墳(銅鏡出土)等8基)--−の宮町迎平
(南郷谷)

(小国)

■6世紀中頃、火の国造と同じ先祖をもつ速瓶玉命が阿蘇の国造(阿蘇の君)になる。(旧事本紀)

阿蘇の飛鳥時代(593年 聖徳太子 推古天皇の摂政〜)
・609年 肥後の国に百済人80人漂着する。
・645年 大化改新る
・654年 戸籍作成。里・五保の制が設立。
・700年 火葬の開始。
・715年 里を郷と改める。

「邪馬台国の近くには阿蘇山があり、其の石、故無くして火起こり天に接する者、俗似って異と  為し、因つて祠祭を行う。如意宝殊有り、其の色青く、大きさ雉卵の如く、夜は即ち光有り。云う希の眼精なりと」と記述があります。隋書倭人伝 (589年 隋 中国統一し、618年 滅亡)

阿蘇評督に任命される。

阿蘇の奈良時代(710年平城京遷都〜)
・723年 三世一身法の施行。
・743年 墾田永年私財法の施行。

770年 年号が宝亀となりました。

■律令国家時代には、封戸と神田によって阿蘇社の祭祀、造営が行われていました。
・796年 阿蘇山上の神霊地が20丈も涸れる。
・823年 阿蘇山噴火。神名 健磐龍命の神に従4位下勲5等の神階を授与されました。(日本紀略)

阿蘇の平安時代(794年平安京遷都〜)
・805年 最澄は天台宗を開かれました。
・806年 空海は真言宗を開かれました。

阿蘇山上の神霊地は、祈祷する健磐龍命の神宮であり上宮といいました。又、宮地の阿蘇社は下宮(近津宮:ちかつみや)と言いました。(続日本後紀)
  • 阿蘇火山信仰(阿蘇山をご神体とする)を軸として阿蘇地方の領主(阿蘇一宮阿蘇社)として発展しました。
  • 823年 淳和天皇 弘広14年 封戸2千戸が寄進されました。この土地を貴族に寄進して荘園としています。 開拓した人々も阿蘇人事屋に土地を寄進しました。
  • 840年 阿蘇山 神霊地が40丈も涸れました。
  • 847年 阿蘇国造神社は官社となりました。
  • 859年 阿蘇比盗_社は官社となりました。
  • 864年 阿蘇山噴火。
  • 905年 醍醐天皇 延喜5年 延喜式には、肥後の式内社4座の内、3座は阿蘇の社(健磐龍命神社、阿蘇都比盗_社および国造神社)で占められました。
  • 矢部の浜の館跡から白磁の置物や青磁器が発掘されたことにより、インドシナ半島まで交易をしていたと推測されます。
  • 927年 醍醐天皇の延長5年に延喜式が選上された神名帳に、阿蘇神社は神社最高の 地位の名神大に列せられました。平安時代の阿蘇神社社殿は、宮城の制を模して 造営されました。神域は南北8町(870m)、東西4町(440m)といわれ、その角に 八丁塚(藪)がありました。
  • 平安中期頃から律令制が衰退してくると、阿蘇郡の封戸、神田の荘園化や大宮司の荘官化によって阿蘇本社を維持運営しました。また、詫麻郡健軍社、益城郡甲佐社および宇土郡郡浦社を末社として勢力の拡大を図りました。
  • 平安時代後期1135〜1141年ころ阿蘇氏は宇治宿禰を称しました。これは、健磐龍命が山城国宇治から阿蘇地方を賜って造宮したという伝承に基づきます。阿蘇郡大領となりました。阿蘇郡は阿蘇社領となり、阿蘇社(阿蘇荘)といいます。
  • 1137年 宇治(阿蘇)惟宣 阿蘇神社大宮司
■遺跡
  • 下畑A/B遺跡---縄文時代後期〜平安時代
  • 水掛・長柏遺跡---縄文時代早期〜平安時代
阿蘇の鎌倉時代(1192年〜)
・1192年 鎌倉幕府成立。
・1332年 護良親王は挙兵する。
・1333年 新田義貞は鎌倉を攻撃し、北条高時は自刃する。
遺跡
  • 湯山遺跡--------縄文時代早期〜中世
  • 二本松遺跡------縄文時代早期〜中世
中世以降(鎌倉時代〜南北朝時代〜室町時代
  • 阿蘇社”と呼称しました。
鎌倉時代
  • 阿蘇谷を中心に火国全体に勢力を広げていきました。
  • 北条時政阿蘇荘の預所兼地頭に任命されました。

下野狩
日本最古と言われる「阿蘇の下野の巻狩は、阿蘇大宮司家が武将の頃、往生だけ南麓の下野一帯で大規模に行ったものと言います。
 健磐龍命が神霊を慰めるため、または作物を食い荒らす鳥獣を駆除し武の気風を養う目的で始められたと伝承されています。又、稲作を教えた後に贅狩をして天神地祇に供えた。(阿蘇宮由来略)

 1191年 後鳥羽天皇 建久2年 平氏政権から源頼朝による武家政権(1192年 征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に幕府を開く)の始まりを迎える頃、権納言 源頼朝は訓練と志気高揚のため、富士山のすそ野で牧狩りをもよおすにあたり、梶原景時は、「阿蘇の下野の巻狩」の古来の式法を習うため使命により、阿蘇の東北 久住山で狩猟演習をしました。
 源頼朝は黄金造りの太刀を阿蘇家に贈った伝えられています。(阿蘇郡誌) 
  • 1193年 阿蘇大宮司は下田権大宮司に命じて、源頼朝が使わした梶原景高に巻狩を伝授し、上鏑矢100本とむかばきを作って頼朝に贈ったと言います。また、帰りに久住山の大和山慈恩院があるところで、反対を押し切って演習し、慈恩院の名を猪鹿狼寺(いからじ)と名づけたと言います。(小国郷誌)
  • 江戸時代 狩野探幽の弟子 薗井守供が描いた金地に山の緑がはえる阿蘇下野狩図が見事です。
  • 私が中学生時代までは学校行事で毎年、冬になると、阿蘇山のすそ野に全校生徒があつまり兎狩りをしました。子供達が獲物を追い、猟銃を持った大人が網の前で待ち受けていました。狩から帰校すると すでに混ぜご飯が皆んなに配られ舌包みを打ったものです。今にして思えば、中世から毎年2月に狩が続いていたのでしょうか。
  • 戦国時代には阿蘇氏は大友氏との友好関係に努めました。
阿蘇の建武の新政/南北朝時代(1334年〜)
建武の新政
 
1334年 後醍醐天皇の建武の新政
  
護良(もりよし)親王は鎌倉に配流される
 
 ・1335年 足利直義は護良(もりよし)親王を暗殺する。尚、護良(もりよし)親王が鎌倉を逃れて海路により宮城県石巻市川口町に下った時、お供をした侍臣の霊を祀った神社として朝臣宮(あそみのみや)
があります
  
・阿蘇郡、三末社(甲佐社・健軍社・郡浦荘)は阿蘇社の大宮司が支配しました。
  ・後醍醐天皇は諸国一の宮を荘園領主の中央政権から切り離し独立させました。


南北朝時代

  • 大宮司は武士化したことにより、南北朝以来、神領の聖俗を支配する封建領主化して祭祀から離れました。
  • 菊池千本槍
    • 南北朝時代 肥後の国の武将 菊池武時が短刀に青竹の柄をつけて兵士に持たせて戦わせたのが起源と言います。片刃の短刀を竹の先に縛り付け、刀身の茎(なかご)が30pと長かったようです。
  • 1361年 肥後国室町幕府守護 阿蘇惟澄
  • 1362年 肥後国室町幕府守護 阿蘇惟村

阿蘇の室町時代(1392年〜)

室町時代

  • 熊本県矢部町には阿蘇大宮司家(古代阿蘇氏の末裔)の浜の館があり、そこから1586年に島津家から攻められ、さらに翌年 豊臣秀吉の九州平定のさいに攻め取られましたが。この時庭園に祭祀の宝器が21点埋められました。このなかには東南アジアからもたらされた鳥形の陶器がありました。

山岳仏教

  • 山岳仏教のメッカ阿蘇
    • 阿蘇山上にあった古坊中には、天台宗系の衆徒、行者および山伏の坊・庵が多数軒を連ねていました。
    • 里におりては牛王法印お札を売り、阿蘇講ツアーを募集して阿蘇案内をしたそうです。
    • 古坊中は天正年間に廃絶されたといいますが、島津に焼き払われたとも伝えられます。1587年 豊臣秀吉は九州平定のため肥後にも入り、古坊中から人は消えたと肥後国誌に見えます。
  • 1573〜1592年 阿蘇町南部方面に位置する黒川の西巌殿寺は元 天台密教で山中ありましたが、島津氏に侵略されて焼けました。
  • 1585年 阿蘇惟光は島津に追われ矢部山中に隠れましたが豊臣秀吉により1593年花岡山で切られました。
  • 1599年 加藤清正は黒川村(現在、坊中)に坊庵(西巌殿寺)を復興しました。そして、阿蘇神社と同格の寺領地も与え保護しました。
  • しかし、明治時代になると廃仏毀釈より消えました。
阿蘇の安土桃山時代(1575年)
近世以降(安土桃山時代〜江戸時代)
  • 阿蘇宮”と呼称しました。
安土桃山時代
  • 阿蘇氏は再び神主として阿蘇社の地に移って、古坊中から黒川流域へ移った坊中とあわせ千石の知行を加藤・細川大名から与えられました。
  • 室町期の神事としては、踏歌節会、下野狩、田作りの祭り、風逐の祭り、御田植え祭り、駒取りの祭り等がありました。
  • 官社としては神事、狩猟神事、火山神、牧場神等多くがあります。
阿蘇の江戸時代(1603年〜)
■阿蘇の最初の寺小屋の跡(一宮町東下原)です。東下原から国造神社のある片隅に行く途中にあります。道ばたにあるので見過ごしそうです。

この東方向に大雨の跡に鯰が沢山水たまりに居る田圃がありました。

この北方面には国造神社がありますが、鯰が祭ってあり、鯰が多い土地柄のせいでしょう。昔は淡水ののカルデラ湖でしたから沼の主がいたかも。伝説では龍が湖水にいたと伝えられています。
■1691年 元禄4年 阿蘇山噴火し坂梨、宮地は鳥も空から落ちるほどの大被害が発生したと云います。
■1702年 元禄15年 草部の女性が四国巡礼から種を持ち帰ったと草部村長が記しています。
■1753年 阿蘇山噴火で牛馬が死ぬ。
■1779年 安永8年 阿蘇山噴火し被害甚大。

■1783年 天明年 古川古松軒(備前岡山藩の薬種問屋)は、大津街道を熊本から阿蘇山へ向かう途中、重なった天候不順や噴火による飢饉で阿蘇谷の悲惨さをみ、「西遊雑記」の中で細川重賢の名君は本当かと驚いています。

■1821年 阿蘇山 鳴動。
■1824年 内牧で大火発生。
■1826年 阿蘇山噴火、大洪水発生。
■1832年 阿蘇山噴火でヨナによる農作物の被害甚大。

■幕末 勤王の志士 野尻武右衛門 知保郷生まれ。

■1850年(嘉永3年)尊皇攘夷を唱えた儒学者で維新の先駆者たる吉田松蔭先生(当時21歳)は、第1回の九州遊学(8/25日 萩→小倉→佐賀→大村→長崎→島原→12/9熊本→柳川→久留米→小倉→萩)の折り、熊本12月9日に生涯の盟友宮部鼎蔵と初めて会って話したと言います。この遊学中に書籍61冊を読破し、長崎では中国語を学び唐館・欄館で海外事情を知ったと言います。まさに驚異的です。

■1853年(嘉永6年) 吉田松蔭先生(当時24歳)は、長崎沖に停泊中のロシア軍艦に乗船する目的で、第2回目の九州遊学となりました。9/18江戸を発って長崎に向かい→10/3日に大阪から海路→豊後街道を10/16日豊後→鶴崎→小無田→阿蘇郡 坂梨を通過しています。→10/19日 熊本到着して、宮部鼎蔵と再会しました。同宅に宿泊し横井小楠と会い話しました。10/25日に長崎に急行したものの、11/13ロシア軍艦はすでに出航後であったため、長崎から熊本を経由して萩に戻ったそうです。その後、1854年 下田で海外出国に失敗し、1859年 伝馬町獄舎にて安政の大獄により処刑されました。30歳という若さの惜しい人を亡くしたと言うしかありません。今の世を見てどのように思うでしょうか、また、どのように行動するでしょうか。

■1853年 黒流村の橋本源太郎は、坂梨村で新陰流棒術を身につけ肥後藩による相州警備に動員された事もありましたが、農民一揆の罪を問われ1878年 44歳で獄死しています。黒流 今町神社横に一揆参加者の慰霊のため八地蔵菩薩碑が建てられています。

 
阿蘇の明治時代(1867年〜)
■1871年 明治4年 中通村の高宮広衛は阿蘇日新社を設立。

■1873年 明治6年 阿蘇郡内(湯浦、波野、楢木野、荻岳、産山、)/大分県(久住)には、細川家の九曜紋が刻まれた顕彰碑の知事塔が道路沿・神社付近に建てられました。これは、1870年 細川護久が藩知事になって、横井小楠 実学党の山田武甫・徳富一敬・竹崎茶堂らによる肥後の維新改革の一つである減税によるものと思われます。

■1877年 明治10年 西南戦争勃発。(2月〜9月)
  1877年2月 西南の役が始まり大雪の中、西郷隆盛が率いる薩摩軍1万3千人は、政府に尋問のため上京すると熊本鎮台に通告し、熊本城を攻撃しながら各地に展開しました。迎え撃つ官軍の中には、警視隊として会津藩家老 佐川官兵衛がおりました。警視隊は大分から阿蘇に入り、立野駅陣取った薩摩軍に攻撃をかけましたが、不運にも戦闘中に被弾し死亡。戦場地となった場所に西南公園として西南の役の慰霊碑があります。結局、10月 薩摩軍は官軍に押され西郷隆盛は股に被弾後、自刃し戦争は終結しました。
・2月26日 薩摩軍は二重峠に進出。
・有志隊が阿蘇谷/南郷谷にて結成され政府軍である警視隊(元会津藩士が含まれていました)と共に戦いました。政府軍は地元から軍夫を採用しました。一方、地元住民の一部には薩摩軍に強制的に動員されたり雇われていました。
・3月18日 二重峠・黒川口において薩軍との激戦中、警視隊の佐川官兵衛*1は3発の銃弾をあびて45歳で戦死。
・4月13日 滝室坂の戦いに薩摩軍は敗北
・4月19日 大津の戦いに薩摩軍は敗北
・4月21日 薩摩軍は二重峠から木山町へ撤退しています。
    ・4月23日 坂梨に熊本県出張所が開設されました。

*1:佐川官兵衛(1831〜1877年)
会津藩 物頭の嫡男として会津若松に生まれ、一刀流を使い和歌も嗜みました。江戸で火消頭を務めているとき喧嘩し謹慎→京都守護職松平容保に召され学校奉行→1868年 別選組に選ばれ鳥羽伏見の戦いに出陣→将軍徳川慶喜から旧幕府軍総督を任命されたものの置き去りにされる→3月 鬼官兵衛は陸路 若松へ戻る→4月 朱雀4番士中隊長として越後水原に出陣し越後高田に来た西軍(山県有朋・黒田清隆ら)と戦う→8月 容保から家老に任命される。→8月 長命寺の戦いには総督として参戦→9月 会津藩降伏により謹慎→11月 新政府から呼び出されたが、戦争責任は先任家老が切腹となる。→1870年 斗南藩として斗南へ移住。→1873年 旧藩士の生計をたてるため上京。警視庁 大警部になる。→1877年 2月 西南の役に豊後口警視隊1番小隊長兼副指揮長として九州に入り阿蘇で戦死。

■老女白菊の碑はね西南戦争の折りに実際にあった話を井上巽軒が漢詩体で書いたものをさらに、落合直文が叙事詩にたものです。
■1877年 明治10年 阿蘇で111村、約9千人が打ちこわし(内牧→宮地→坂梨)農民一揆。 小野田村にて傘連判による豪家への借立米の要求。尚、打ちこわしには、“盗るな・焼くな・殺めるな”の規範がありました。

・阿蘇谷の大地主としては角屋、虎屋、お茶屋、板屋、仲屋、豊後屋、雨屋、金屋がありました。
・農民一揆は3月には警視隊の進出により鎮静化され、6月に裁判が実施されました。

・1889年 明治22年 市町村制の施行 宮地村、中通村、坂梨村、古城村。
・1893年 馬の改良。

・1894年 明治27年 国木田独歩は熊本の水谷真熊を訪ねた帰りにね阿蘇に登り宮地を経由として大分へ向かいました。「忘れ得ぬ人々」に宮地で出会った人の事を書いています。

・1899年 明治32年に夏目漱石は五高の先生時代に山川信次郎と阿蘇に登り、体験を元に二百十日を書きました。
・1907年 明治40年には北原白秋、平野万里、与謝野鉄幹、吉井勇および木下杢太郎ら5人は立野から阿蘇に登り、帰路は栃の木温泉に寄っています。
阿蘇の大正時代(1912年〜)
■北里柴三郎博士(1852年〜1931年)は、嘉永5年に熊本県阿蘇郡小国町の惣庄屋に生まれ藩校時習館にてマンスフェルトに学んだ後、古城医学校(洋学校)→東大医学部卒業し、内務省衛生局にてドイツ ベルリン大学留学でコッホに師事時、破傷風血清療法を創始した。M25年帰国後、伝染病研究所創立→北里研究所創立→慶応医学科長となり医学部の基礎を築きました。又、1894年には香港でペスト菌を発見しています。

阿蘇の昭和時代(1927年〜)
・杉の植林が進み景色が濃い緑の山並になりました。昭和の初期、馬は約12千頭近く飼われていました。
・1929年(昭和4年)荻原井泉水は種田山頭火に会うために内牧の温泉に泊まっています。

・1929年(昭和4年)山口県生まれ放浪の自由律 俳人 種田山頭火は、熊本にも住んでいましたが、昭和4年に九州行乞の旅に出て、同年秋も深まった11月30日、阿蘇にも立ち寄りました。この時、阿蘇谷を望み“すすきのひかりさえぎるものなし”という俳句を作っています。現在、一の宮町宮地の阿蘇神社横参道北側入り口付近に、“山頭火”という名の飲み屋さんがあります。種田山頭火は旅先手も酒を良く飲んでいたそうですから飲み屋さんの名前としてはピッタリです。入ったことはありませんが、帰郷の折り側を通る度に、海賊か山賊みたいな変な名前だと思っていました。今度、帰省の折りには是非寄ってみようと思います。

・1931年 (昭和6年)11月 阿蘇火山観測所が設立されました。
        与謝野鉄幹(歌人)は阿蘇を訪問しました。
・1934年 (昭和9年)12月 九州の軽井沢をキャッチフレーズにした阿蘇国立公園が制定されました。内牧生まれの松村辰喜、笹原助、国立公園の生みの親 田村剛博士および細川護立、安達謙蔵諸氏のご尽力によるところが大きい。

・1945年 阿蘇社家の一人であった宮川宗徳はマッカーサー元帥を説得して神社本庁を設立し日本の神社神道を存続させました。
・1939年 (昭和14年)三好達治は阿蘇を訪れました。
・1947年 (昭和22年)高見順草野心平は阿蘇を訪れました。。
・1954年 阿蘇町として内牧町・黒川・永水・尾ケ石・山田4村が合併して成立しました。
・1963年 (昭和38年)4月 国民宿舎が垂玉・地獄温泉に開所されました。
・1964年 (昭和39年)国立阿蘇青年の家が 開所されました。また、九州横断道路が全線開通しました。
・1966年 (昭和41年)サルトルはボーヴォワールを伴い阿蘇の火口を覗いています。
・1976年 (昭和51年)10月 南阿蘇国民休暇村が開所されました。
・1982年 (昭和57年)7月 阿蘇火山博物館が草千里に開設されました。
・1985年 (昭和60年)5月 阿蘇みんなの森にて全国植樹祭が開催されました。
・1986年 (昭和61年)9月 阿蘇くじゅう国立公園に名称変更されました。
・黒川生まれの詩人 蔵原伸二郎。いとこの文芸評論家 蔵原惟人がいます。

阿蘇の平成時代(1989年〜)
■環境を考慮したカルガモ農法や鯉農法が始まりました。減反で莓とかメロンとの栽培をはじめました。また、車が普及し馬車馬がすっかり姿を消しました。赤牛も農家では飼育しなくなりました。ただ、幸いな事に、空・風・木々・山・田園は残っています。
・2005年2月 阿蘇は一の宮町や阿蘇町が合併して、阿蘇市になる予定です。阿蘇市になったら阿蘇郷土資料館または阿蘇歴史民俗博物館を作って頂きたいことが私の願いです。
・2005年 2月11日 一の宮町、阿蘇町および波野村 2町1村が合併し阿蘇市 誕生しました。阿蘇市役所本庁 開庁しました。
       人口30,437人 男14,274人 女15,153人(2004年12月現在) 
       3月6日 阿蘇市長選挙実施され、新阿蘇市長が誕生しました。
       3月13日 阿蘇神社 火振り神事。
2011年3月 
  • 九州新幹線が2011年3月に全線開通する。これにより、熊本経由で阿蘇への観光旅行や帰省が容易になり嬉しい。特に、阿蘇には関東・関西地方からだと飛行機であったが格段に便利になり、今までよりより多く訪問や結婚式・葬儀・法事・介護などによる帰省ができます。今まで,新幹線で福岡まで来ても熊本迄 特急で2時間要していました。熊本まで新幹線で来れれば、あとはJR、バスで阿蘇まで足をのばせます。阿蘇を田舎に持つ我々には、親兄弟・親戚・友達に会えます。行事・神事にも参加できます。野焼きのボランティアも可能性があります。又、この経済効果は計り知れません。
阿蘇のお寺
阿蘇生まれの宗教に貢献した人々としては下記の方がいます。
■仏教

  ・藤井日達---1885〜1985年 一の宮町にうまれ、臼杵の日蓮宗法音寺で得度後
   富士山麓田子の浦に日本山妙法寺を開きました。平和運動家でした。
  ・望月義庵
 ・キリスト教−−−
宮川経輝、佐藤惣三郎
青龍寺
  • 11面観音は行基の作といわれ、坂梨の大山寺を経て現在は宮地字的場に安置されています。青龍寺は1096年 惟行宮司が、慶円(蘇印僧正)を招いて比叡山延暦寺の末寺として、阿蘇神社の北側に阿蘇神社の神護寺として建てられましたが、明治維新後、廃寺となりました
■満徳寺
  • 阿蘇町内牧
  • 亀谷山と号し、浄土真宗本願寺派で本尊は阿弥陀如来様です。
  • 寺宝としては蓮如の十字名号、親鸞の遺骨、栗田国綱の短刀があります。
  • 豊後 大友氏 11代の右京亭親著の庶子親右は、蓮如に帰依し1467年に了善の名を受領しました。のちに豊後に帰り1471年 満徳寺を建立し、三世善念の時に内牧に道場を創立し1600年 満徳寺と称しました。
  • その後、九世了寂は熊本西光寺から入り再興しました。細川氏入国の折りお茶を献上したので茶器・数珠を拝領しました。その後、参勤交代の節、内牧お茶屋で茶を出すことが慣例となりました。
  • 阿蘇谷一円に門徒がいます。
西巌殿寺
  • 阿蘇山三十七坊の総称です。
  • 雲生山と号し、阿蘇町黒川に所在します。天台宗、本尊は十一面観音さま。
  • 阿蘇中岳の西方に本堂(西の巖殿または上宮本堂とも呼称)を持ち最栄読師が726年に来朝し十一面観音像をつくり礼拝しました。坊中に根本中堂を持ちます。
  • 1592年 衰退しましたが、1599年 加藤清正文書により黒川村に坊社が復興しました。噴火口に近い方に衆徒方、北側に業者方の坊社が建てられました。
  • 現在、4月13日の観音祭りには山伏姿の行者が県内から集まります。
満願寺
■山岳仏教のメッカ阿蘇
  ・阿蘇山上にあった古坊中には、天台宗系の衆徒、行者および山伏の坊・庵 が多数軒を連ねていました。
  • 里におりては牛王法印お札を売り、阿蘇講ツアーを募集して阿蘇案内をしたそうです。
  • 古坊中は天正年間に廃絶されたといいますが、島津に焼き払われたとも伝えられます。1587年 豊臣秀吉は九州平定のため肥後にも入り古坊中から人は消えたと肥後国誌に見えます。
阿蘇近辺の学校

◆「農業大学校」

住所:〒861-1113 熊本県菊池郡合志町栄3805

п@:096-248-1188

◆「高等草地畜産研究所」(農業大学校の関係機関)

  所在地:熊本県阿蘇郡阿蘇町
                               *住所、電話番号は変更になる場合がありますのでご注意下さい。
 阿蘇の歴史を辿ると、其の時代々に優れた活躍をして足跡を残している有名・無名の人々が大勢いる事に驚かされます。
 昭和44年に山本十郎氏が編纂された著書「阿蘇魂」には、『“日本には日本魂がある、肥後には肥後魂がある。阿蘇に阿蘇魂があっても決して可笑しくない・・・隣境菊池には菊池精神がある。・・・菊池魂または肥後魂という”とあります。菊池氏は南北朝時代に南朝に奉仕していました。ますら武夫の武は“戈を止める”の意味で平和が根本精神であり、有名な菊池千本槍は戦うために振るうのではなく、国家大安のためやむなく義憤で振るうと言う事で、井上梧陰先生は、その旨の和歌を添えて明治天皇に奉献されたと述べられています。また、我が国には三つの胤族から成り一は皇胤、一は神胤、一は藩胤とあります。阿蘇には、清和・村上両源氏の末裔がありとも述べています』(自序/緒言)

  ここで私は、魂と言うことで去来するのは、幕末 吉田松蔭先生が目的を目前にして果たせぬまま、安政の大獄による江戸伝馬町で、1859年10月 30歳の若さで処刑時、“身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂”と詠んだ辞世の句があります。生き様や残された書簡を見ると、察するに後悔はしていないというの事が救いです。この吉田松蔭先生は1853年 24歳の若き日に外国の優れた技術を見聞する目的で丁度、長崎沖に来航したコシア軍艦に乗船するため豊後街道を阿蘇を通って長崎へ急いでいた途中であります。10月中旬の秋頃、阿蘇山のたなびく噴煙、収穫期を迎え黄色く輝く畑田そして素朴で貧しい土地の人々を眺めながら何を感じたのでしょう。しかし、あまりにも阿蘇の自然は雄大で、一時でも生死をかけた尊皇攘夷の事は片隅にいったのかもしれません。そうあって欲しいと思います。稲刈農作業の手を休め珍しい若き旅人を見ている人々と会釈を交わし、坂梨や内牧のお茶屋の椅子に座り、天高くどこまでも青く澄んだ空と紅葉した山肌を望みながら、“この二重峠を越えて肥後をすぎれば長崎は近い”と独り言を言いながら貴重な路銀をはたいてダンゴを食べたのではないかと察するところです。

 話を元に戻します。阿蘇宮司の次男 阿蘇惟教(1873〜1914年)は、国典考古学を極め阿蘇で塾を開いたがフランスへ留学後、、八代宮(後醍醐天皇の皇子 懐良親王を祭神とし南朝方三官弊社)宮司を経て1908年 高良山玉霊神社宮司を務め、邪馬台国の探求をされたと言います。阿蘇惟教はその後、樺太神社を創建したのち、奈良県官幣大社 龍田神社の宮司に転じられました。ちなみに、私も今までは奥が深すぎ確証が掴みにくいので関わらないようにしていた邪馬台国・卑弥呼を、阿蘇のペンション管理人さんのメールもあって調べようかなと思い立ったところでした。

[参考文献]・環境史研究会 小畑弘巳 「象ケ鼻D遺跡第一次発掘調査概要報告書」 一の宮町教育委員会 1998.3
   ・山本十郎編 「阿蘇魂」 阿蘇魂刊行会 昭和44年4月発行
      ・水野公寿著「西南戦争と阿蘇」平成12年発行
   ・熊本日日新聞社 「新・阿蘇学」 昭和32年11月発行
目次 九州の歴史 熊本の歴史 阿蘇の歴史 下野狩 
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