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東岳川を中央に東側と西側に分かれる中通古墳群 中央部(東岳川を挟む) ↓ |
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中通古墳群 東側(東岳川の東側) ↓ |
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中通古墳群 西側(東岳川の西側) ↓ |
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1.東側古墳群風景(東岳川の東側) | |
東岳川(ひがしだけがわ)の東側北より勝負塚、車塚B、車塚A、入道塚、薬師の藪、銭亀塚等の円墳があります。 | |
中通古墳群 東側古墳群風景 | 説 明 |
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入道塚 田圃のただ中にある円墳です。古墳を削ると発熱し倒れるよと田圃の持ち主が話していました。 (2007.2.26) ・直径25.0m ・以前は、竹や雑木が生えていました。又、入道塚の南東にある平坦で、小さな墳丘。殿様の墓地(左側)だと子供の頃に聞きました。 |
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以前は、竹や雑木が生えていました。 |
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車塚1号墳、2号墳 子供の頃、春は草スキー、冬は雪滑りで遊んだなだらかな円墳らしい円墳です。 ・直径47.0m 、高さ8m。 ・北側水田中から小型の竪穴式石室が発見されました。(S40年代) |
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車塚1号墳 ・直径16.0m ・左側の円墳です。春の緑色とは違った趣があります。右側の小さめの円墳は車塚Bです。(2007.8.14) |
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・左側の円墳です。春の緑色とは違った趣があります。右側の小さめの円墳は車塚Bです。(2007.8.14) | |
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・勝負塚(手前中央) (東岳川の東側(向かって左)) ・小嵐山から猫岳方面を望む東側古墳群風景です。後方は大観望です。 ・墳丘の規模の割りに墳頂が尖い。 ・大型の円墳。蘇谷志科(国誌)では菖蒲塚に石棺があったと記されています。 ・最大径58.7m 高さ2.4m。南側は昔から墓地として使用されています。 |
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銭亀塚 ・道端の低くて小さい見逃しそうな塚てす。 ・直径13.0m |
薬師の藪 ・現在地は不明です。 |
2.中通古墳群 西側古墳群風景(東岳川の西側) | |
東岳川(ひがしだけがわ)の西側北より上鞍掛塚A、鞍掛塚B、鞍掛塚A、長目塚等の古 墳があります。尚、小嵐山と長目塚と中岳は、南北に一直線に並んでいます。これらは阿 蘇の君一族の墳墓でした。 | |
東岳川の西側 | |
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■西側古墳郡 ・北西に大観望がみえます。 ・右手には前方後円墳(長目塚)が見えます。 (2006.12) |
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長目塚から西方を望む(2006.12) |
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■長目塚 |
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・小嵐山と長目塚と中岳は、南北に一直線に並んでいます。(2006.12) |
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*東岳川の西側古墳全景です。左ら鞍掛塚A、上鞍掛塚A、鞍掛塚B、上鞍掛塚B(平成13年5月撮影 曇) |
西側古墳群風景 | |
西側古墳群風景 | 説 明 |
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西側古墳群全景 |
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上鞍掛A(手前側) ・前方後円墳 ・中期後半頃。 ・最盛期の様式で、後円部の墳頂部が広い。 ・前方部が発達していた全長71m、高さ6.5mのしゃもじに似た小形の前方後円墳。 (2006.12) |
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上鞍掛B ・直径25.5m ・右側の小円墳(平成13年春撮影) |
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鞍掛塚A(最左端) (2006.12) |
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鞍掛塚A ・中通古墳群の最盛期様式 ・直径33.0m (2006.12) |
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鞍掛塚B ・直径21.5m ・左の小円墳(平成13年春撮影) |
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長目塚 ・阿蘇市一の宮町中通古墳群の一つです。九州最大の「柄鏡式前方後円墳」で、全長111.5m、円墳直径59.5m、高さ9.2m。前方部の幅30mです。古代には周溝がめぐり外堤があったと伝えられています。墳丘には葺石があり3〜4段の埴輪列が置かれていました。 ・5世紀前半期に築造されました。 ・阿蘇家の古代先祖の墓です。 ・昭和24年、中通村の甲斐重喜村長時代に熊本県史蹟名勝天然記念物並国宝重要美術品調査委員 坂本経堯は調査団を編成し12月18日から11日間調査しました。前方部の最高位部に竪穴式石室があり、下記の副葬品が出土しました。 ・前方部の最高位部の竪穴式石室に成人女性35歳前後の人骨が埋葬され、丹が残っており、流出した丹により川が赤く染まったと言います。 ・鏡(内行六花文鏡)、管玉、丸玉、太刀、刀子、矢筒にはいった鉄鏃、鉄斧等です。 |
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(2007.2.26) |
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・小嵐山と長目塚と中岳は、南北に一直線に並んでいます。 (2006.12) |
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・長目塚は、昔、河川工事でその前方部が削り取られました。(2006.12) |
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中道古墳群の南端に位置し6世紀前半期の古墳です。 | ||||||||||||||||
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阿蘇一の宮町 国造神社を中心に、阿蘇国造を祭る古墳が8基あります。6世紀中頃に造築されました。 複式、横穴式石室古墳。中学生の頃、民家の庭先から石室に入りましたが、たしか頭もぶつけずに歩けたので高さは150p程度はあったと思います。すべすべした黄土色の壁が長く続いていたとおもいます。壁画等は気づきませんでした。外の光がほんのりしいて、ひんやりしていたので野菜の貯蔵庫に使用されていた様な気もします。 |
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御倉古墳群は速瓶玉命と![]() 雨玉姫命の神懸かりりの岩屋と言われて、 神陵で と伝えられています。速瓶玉命は、 水の神様つまり鹿漬川等の治水に貢献した族長の墳墓と 思われます。つまり阿蘇の開拓や農業の発展に尽くされました。 |
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上御倉古墳(かみみくら)
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下御倉古墳(しもみくら)
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長形の箱式石棺をもつ古墳で、阿蘇谷最古の様式です。 |
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・装飾古墳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
装飾古墳は菊池川流域、筑後川流域および有明海沿岸に多く見られます。装飾古墳は山鹿のチブサン古墳が有名です。私は残念ながらまだ見学していません。何時か帰省した折りに方向は異なりますが岩戸山古墳と共に行きたいと思っています |
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・チブサン古墳 熊本県鹿本郡鹿央町 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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・田代太田古墳 佐賀県鳥栖市田代本町太田 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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・西都原古墳群 宮崎市西都市 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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・岩原古墳群 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
・岩戸山古墳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
・江田船山古墳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
・造山古墳 岡山県 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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▲埴輪
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古墳時代が定説より約100年早まり西暦80年の測定結果! 従来、日本における古墳時代の始まりとしては、古墳時代初頭 紀元150年頃からといわれていました。ところが、愛知県朝日遺跡出土の廻間式T式土器(前半)に付着したスス等5点を加速器質量分析器(AMS)により測定した結果、AMS測定値が従来の150〜200年頃から100年遡り西暦80年頃となった。これにより年代特定の基礎である土器型式の時期区分が修正され濃尾平野の古墳時代の開始も100年遡る。(2003.6.8 朝日 名大 山本直人教授) |
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