熊本の歴史 |
<火の国>
- 肥前風土記によると、大化改新以前は火国(肥国)と呼ばれました。健緒組(肥君の祖)は崇神天皇の命により益城郡の朝来名峰に住んでいる2人の土蜘蛛征伐した帰り、八代 白髪山で大空から火が山に下降して来た事を話した所、火の国と名づけるがよいと申されました。
- 景行紀によると、景行天皇が熊襲征伐後、筑紫視察し火の国へ行くとき葦北 火流れ浦から乗船し、火の光を目指して進んだところを八代郡 火の邑と言います。(不知火説)
- 阿蘇山の火(阿蘇山説)
- 当時、最も開けていた八代郡 肥伊郷の氷川(宮原)から火の国といいます。 (定説)
<肥後国>
- 肥の国は、肥後国と肥前国に分かれました。これは太宰府から国府迄の距離で近い方が前、遠い方が後としました。国府は当初、託麻郡に置かれその後、飽田郡(熊本市)に置かれました。
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旧石器時代
10万年前 旧石器
- 荒尾市平山宿遺跡から片刃礫器・尖頭器が出土。球磨郡下里遺跡から剥片が出土しています。
- 国内の1/3 約100ケ所は熊本県内の阿蘇外輪山、球磨の地方、水俣市の石飛分校遺跡から細石器と爪形痕土器、天草下島の内の原遺跡があります。
3万年前
- 熊本県 白川左岸の小山山山麓の熊本市 石の本遺跡で3万年前の4000点の安山岩製ナイフ形石器が発見された。また、局部磨製石器(石斧)も出土しています。
- 阿蘇郡下城遺跡、菊池市伊野遺跡、下益城郡曲野遺跡、人吉市狸谷遺跡があります。
2万5千年前
- 下益城郡松橋町 曲野人(まがのじん)は、不知火海に近い見晴らしの良い台地に滞在し旧石器を使用。
2万年前
- 球磨郡山江村狸谷遺跡からチャート製石器が出土しています。
BC1万年 縄文時代草創期
- 人吉市狸谷・白鳥平B、水俣市石飛遺跡があります。
- 熊本市カブト山・庵の前、菊池郡瀬田浦・牟田原、下益城郡沈目遺跡、健軍上の原遺跡、上益城郡櫛島遺跡があります。
- 熊本市内周辺上南部遺跡(九州の1/3)から土偶出土しています。
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縄文時代早期
- BC7000年
- 阿蘇外輪山西方山麓地域の菊池郡大津町瀬田裏遺跡から、底の平らな押型文土器、壷型土器、石組炉跡および配石遺構等が発掘されています。
- BC5000年
- 菊池郡大津町の無田原遺跡から約7000千年前の環状列石が20ヶ所以上も発見されました。秋田県の大湯環状列石や鹿児島県の上野遺跡よりも古く、日本の中でも最も古いのではないか。
縄文時代前期
- BC4200年
- 鬼界カルデラの爆発により、九州全域は壊滅的な打撃をうけました。
- BC4000年
- 下益城郡宮島貝塚、熊本市川戸貝塚、宇土市曽畑貝塚/轟貝塚があります。
- 宇土市の湾内遺跡から曽畑式土器が発掘。宇土市岩小曽町曽畑貝塚からドングリや瓢箪が出土しています。
縄文時代中期
- BC3000年
- 下益城郡阿高貝塚、熊本市沼山津貝塚があります。
- 城南町阿高貝塚から太形凹線文がある赤褐色の阿高式土器が発掘。
縄文時代後期
- BC2000年
- 菊池郡御手洗遺跡/六地蔵遺跡/三万田遺跡、
- 熊本市上南部遺跡から多量の土偶が西日本地域では珍しく発掘されています。
縄文時代晩期
- BC1000年
- BC660年 第 1代 神武天皇即位。
- BC581年 第 2代 綏靖天皇即位。
- BC549年 第 3代 安寧天皇即位。
- BC510年 第 4代 懿徳天皇即位。
- BC475年 第 5代 孝昭天皇即位。
- BC392年 第 6代 孝安天皇即位。
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BC300年 弥生時代前期
- 白藤遺跡から100基の甕棺墓が発見され超小型銅矛、ヒスイ勾玉、石製青銅器鋳型、小型ぼう製鏡が出土。
- 青銅器は菊池川・白川・緑川・筑後川・多摩川流域で発掘されています。
- 熊本市苗代津遺跡は江津湖に近く石包丁、弥生式土器が出土しており、熊本平野・玉名地域の湿地帯で稲作が始まった様です。
- 熊本平野南部の球磨郡免田町から免田式土器が最初に発掘されました。
- BC290年 第 7代 孝霊天皇即位。
- BC214年 第 8代 孝元天皇即位。
BC200年 弥生時代中期
- BC158年 第 9代 開化天皇即位。
- BC 97年 第10代 崇神天皇即位。
- BC 29年 第11代 垂仁天皇即位。
- 紀元後1年
- 熊本市牧崎・黒髪町遺跡、菊池市外園遺跡等が築造されました。
- 71年 第12代 景行天皇即位。
100年 弥生時代後期
- 熊本市鶴羽田・戸坂遺跡、球磨郡下乙本目遺跡、熊本市五丁中原・運動公園遺跡、菊池郡西弥護免遺跡等が造築されました。
- 菊池地方では、珍しい現代と同様な取っ手のついたジヨッキ型土器が製作されました。
- 131年 第13代 成務天皇即位。
- 192年 第14代 仲哀天皇即位。
200年
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300年 古墳時代前期
- 宇土市には前方後円墳が多数 築造されています。
- 向野田古墳は竪穴式石室を持ち、舟形石棺が納められていました。石棺の内部は待つかに塗られ、銅鏡、長剣・短剣・直刀、車輪石腕輪、管玉、勾玉および鉄斧等の埋葬品から巫女的女王の人骨が埋葬されていたと言います。
- 宇土市迫ノ上・弁天山古墳、熊本市水源町遺跡、下益城郡塚原古墳群が造築されました。
- 八代市小鼠蔵1号墳からは、肥後型石室(正方形の横穴式石室で壁に石障(板石)が巡らされ天上がドーム型 )が、発見されています。
- 313年 第16代 仁徳天皇即位。
- 350年 大和朝廷の統一
- 367年 氏姓国家
■宇土半島地方から産出する馬門石 |
阿蘇溶結凝灰岩で、一般には阿蘇ピンク石、赤石と呼ばれます。この阿蘇ピンク石は、古墳時代に瀬戸内海を通じて、吉備、奈良へ輸送され豪族や天皇の古墳に納められた石棺となりました。
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▲築山古墳の石棺
吉備の国(岡山県)にある築山古墳(5世紀後半 築造)と造山古墳(5世紀前半 築造の4番目に大きい前方後円墳)の石棺は、はるか九州の地から船で瀬戸内海を運ばれてきたのでしょうか。古墳時代には、この様に何トンもある重い荷物を運搬する技術があったのですね。この溶結凝灰岩は阿蘇の火山噴火による高温の火砕流から出来ました。 |
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・船形石棺
苔むしてわかりにくいが、ほんのりピンク色している |
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▲造山古墳の船形石棺(黒灰色) |
吉備 |
▲長持山古墳の船形石棺 |
大阪府 |
▲峰が塚古墳の船形石棺 |
大阪府 |
▲金屋ミクロ谷の舟形石棺 |
櫻井市 |
▲慶運寺の舟形石棺 |
櫻井市 |
▲野上古墳の船形石棺 |
奈良 |
▲兜塚古墳の船形石棺 |
櫻井市 |
▲鑵子の船形石棺 |
天理市 |
▲今城塚古墳の家形石棺 |
高槻市 相模原博物館の特別展示で見学した今城古墳出土の埴輪類は大きく造形が豊なものでした。当時の説明では阿蘇ピンク石のかけらが出土したとの事を記憶しています。 |
▲東乗鞍の家形石棺 |
天理市 |
▲円山古墳の家形石棺 |
野洲市 |
▲甲山の家形石棺 |
野洲市 |
▲植山古墳の家形石棺 |
橿原市 |
▲四天王寺礼拝石 |
大阪市 |
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出典:宇土馬門石歴史散歩馬門石ガイドブック2005.3 宇土市教育委員会 |
400年 古墳時代中期
- 鹿本郡岩原古墳群、、八代郡野津古墳群が造築された。玉名市江田舟山古墳には雄略天皇の銘を含む75文字を刀身に銀象 嵌した鉄剣が出自しています。
- 塚原古墳は下益城郡城南町の台地上に、まず、前期に方形周溝墓が造られ、中期になると前方後円墳・装飾古墳が造られていったようです。
- 江田船山古墳は玉名郡菊水町の清原台地にある、横穴式 家形石棺が納められた前方後円墳です。有名な国宝 銀製象嵌の文字(雄略天皇か?)が刻まれた鉄剣が出土しています。銅鏡、装身具、馬具等が副葬品としてあります。中国・朝鮮系の遺物が含まれています。
- 400年 第17代 履中天皇即位。
- 須恵器生産技法が朝鮮から伝わり始める。埴輪と同じ窯で焼きました。
- 400年 屯倉制
- 412年 第18代 允恭天皇即位。
- 宇志瓶乃君:うしみかのきみ(阿蘇直)は允恭天皇に仕えました。
- 453年 第19代 安康天皇即位。
- 456年 第20代 雄略天皇即位。
- 462年 宋で道教成立。
- 480年 第21代 清寧天皇即位。
- 485年 第22代 顕宗天皇即位。
- 488年 第23代 仁賢天皇即位。
- 491年 第24代 武烈天皇即位。
500年 古墳時代後期
- 装飾古墳の築造が盛んになりました。菊池平野、鹿本平野、玉名平野を通り 有明海へそそぐ菊池川流域は、岩原古墳等の古墳文化が栄えました。
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- 山鹿市のチブサン古墳。
- 肥後型石室を持つ代表的な装飾古墳です。
- 熊本市千金甲、宇土郡国越古墳。山鹿市鍋田横穴墓。松坂古墳のある菊池川沿いの玉名地方は阿蘇石を材料にした舟形石 棺 の産地です。この石棺は畿内の大王墓にも使用されています。
- 古代の九州は豊の国、筑紫、肥の国、薩摩・大隅・日向の4地区でしたが、肥の国は肥後と肥前に分かれ肥後の領域が熊本となりました。熊本 は九州の中心であり全県と隣接します。
- 宇土半島では船の線刻装飾古墳が多く造られました。
- 512年 県・屯倉の設置
- 527年 磐井の乱
- 531年 第27 代 安閑天皇即位。
- 535年 第28 代 宣化天皇即位。
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538年 飛鳥時代
- 538年 仏教伝来
- 539年 第29代 欽明天皇即位
- 540年 国造制充実
- 553年 阿蘇山噴火
- 556年 筑紫火君は百済王子の帰国に際して、勇士1000人で津路を護衛。
- 572年 第30代 敏達天皇即位
- 583年
- 葦北国造の子 日羅は任那復興のため百済より帰国後に暗殺されました。
- 九州は大まかに筑紫、火、豊と曾の4国に分かれました。肥後国は大部分が火の国に属していました。
- 火の国の起源としては肥後国風土記によると、崇神天皇時代、益城郡の朝久名峰で土蜘蛛族180人が欺いたため、健緒組みに伐たせました。健緒組が八代郡白髪山に至ったとき、日暮れて大空に火が燃えるのが見えたので、驚いて奉上したところ天皇は功をほめ、火の下る国であるからこの国を火の国といい、健緒組に火の君の姓を賜りました。
- 585年 第31代 用明天皇即位
- 587年 第32代 崇峻即位
- 589年 隋 中国を統一。
- 592年 第33代 推古天皇即位
- 593年 聖徳太子 摂政となりました。
- 600年
- 607年 法隆寺創建 薬師如来像
- 609年 百済僧道欣ら百済人85人 肥後国葦北津に漂着しました。
- 622年 聖徳太子死去。
- 629年 第34代 舒明天皇即位
- 642年 第35代 皇極天皇即位
- 645年 第36代 孝徳天皇即位
- 蘇我氏滅亡。
- 大化改新始まりました。律令国家形成。
- 国府(国司は国衙:国庁で政務をとりました)が各国に置かれました。
- 652年 班田制
- 646年 東国に国司を任命開始。国司は戸籍作成、武器の没収。
- 650年 このころから駅伝制開始(駅馬は16km毎に駅家を設置し緊急要に使用し直線、鞍部を通りました。伝馬は官人の日常の移動に使用しました)
- 655年 第37代 斉明天皇即位
- 661年 律令制国家の開始
- 668年 第38代 天智天皇即位
- 671年 第39代 弘文天皇即位
- 672年 飛鳥京遷都
- 673年 第40代 天武天皇即位
- 687年 阿蘇評督角足、宇治宿禰と姓を賜りました。
- 690年 第41代 持統天皇即位
- 694年 藤原京に遷都
- 695年 持統天皇9年 肥後国が成立しました。
- 宇土・下益城地方は古墳・貝塚が多いところで、古代には国府がおかれ、火の君が活躍していたと言います。下益城郡城南町陣内には陣内廃寺という古い寺跡があります。
- 696年 696年 持統天皇10年 13郡に分けられていました。(日本書紀)
- 697年 第42代 文武天皇即位
- 698年 鞠智城(くくちじょう)は鹿本郡菊鹿町にあり、太宰府の管轄下にあったようです。八角形の建物跡が発掘されています。くくちという呼び名が狗奴国のクコチヒクと似ている所から、狗奴国があったのではと推測されています。八角形といえば銅鏡にも八陵鏡があります。何らかの繋がりがあると推測します。
- 700年
- 701年 大宝律令成る
- 国司の権限が半伝の実施、徴税、警察、駅伝運営兵士/武器の管理戸拡大しました。のちに守護から警察権を取られて衰退しました。国司の下に郡司が設けられ行政を行いました。郡司には国造や県主等の地元の有力者が任命されました。
- 707年 第43代 元明天皇即位
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708年 奈良時代
- 710年 平城京へ遷都
- 713年 道君首名は筑後守兼肥後守となりました。
- 715年 第44代 元正天皇即位
- 724年 第45代 聖武天皇即位
- 718年 肥後国守 道君首名は肥後で味生池を築き善政をおこないましたが死去しました。
- 743年 肥後・筑紫両国は朝廷に元旦節会に赤腹魚を献上しました。
- 749年 第46代 孝謙天皇即位
- 758年 第47代 淳仁天皇即位
- 764年 第48代 称徳天皇即位
- 770年 第49代 光仁天皇即位
- 10月1日 益城郡 山稲主(やまのいなぬし)、葦北郡 日奉り部広主女(ひまつりべのひろぬし)の2人は、白亀献上したことにより大瑞とみなされ、元号を宝亀(ほうき)と改元。(続日本紀)10月26日 肥後守 大伴宿禰駿河麻呂は恩賞を受けました。
- 781年 第50代 桓武天皇即位
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782年 平安時代
- 平安時代初期に祈祷仏教が盛んになりましたと、噴火口の異変が国家の災難の前兆として太宰府から中央政府に報告され神の怒りをなだめる措置がとられました
- 794年 平安京へ遷都
- 795年 肥後国は上国から大国へ昇格。
- 796年 阿蘇山上の神霊池が涸減したと伝えられます。
- 796年
- 爆発。(日本後紀)
律令体制下に筑紫は筑前、筑後、肥前および肥後に再編成されました。
- 800年
- 806年 第51代 平城天皇即位。
- 806年 空海 真言宗を開きました。
- 809年 第52代 嵯峨天皇即位。
- 823年 第53代 淳和天皇即位。
- 825年 阿蘇山噴火?
- 833年 第54代 仁明天皇即位。
- 840年 健磐龍命に従三位を授与されました。阿蘇山噴火?
- 847年 阿蘇郡国造神社を修造し官社となりました。
- 850年 第55代 文徳天皇即位。
- 855年 肥後国は公営田の延長を申請し許可されました。
- 9世紀中頃、健磐龍命は九州では宇佐八幡大菩薩に次ぐ代表的な神と なりました。肥後の国府は詫麻郡から飽田国府に移りました。
- 858年 第56代 清和天皇即位。
- 859年 荘園制の発達
- 864年 阿蘇山噴火
- 867年 阿蘇山噴火
- 876年 第57代 陽成天皇即位。
- 884年 第58代 光孝天王即位。
- 887年 第59代 宇多天皇即位。
- 893年 飽田郡に新羅人進入し人宅を焼き松浦郡へ逃亡しました。
- 897年 第60代 醍醐天皇即位。
- 900年
- 927年
- 醍醐天皇の延長5年に延喜式が選上された神名帳に、阿蘇神社は神 社最高の地位の名神大に列せられました。平安時代の阿蘇神社社殿
は、宮城の制を模して造営されました。神域は南北8町(870m)、東西
4町(440m)といわれ、その角に八丁塚(藪)がありました。
- 930年 第61代 朱雀天皇即位。
- 935年 藤崎崎宮が創設されました。
- 939年 天慶の乱
- 946年 第62代 村上天皇即位。
- 967年 第63代 冷泉天皇即位
- 969年 第64代 円融天皇即位
- 984年 第65代 花山天皇即位
- 986年 第66代 一条天皇即位
- 997年 南蛮賊徒が肥後、肥前、薩摩に進入しました
- 1000年
- 1011年 第67代 三条天皇即位
- 1016年 第68代 後一条天皇即位
- 1019年 刀伊賊が博多に入冠したが、藤原蔵規(菊池氏の先祖)が撃退しました.
- 1036年 第69代 後朱雀天皇即位
- 1045年 第70代 後冷泉天皇即位
- 1068年 第71代 後三条天皇即位
- 1072年 第72代 白河天皇即位
- 1077年
- 阿蘇郡一円を庄域としました阿蘇庄が成立した。阿蘇庄は阿蘇社領で もあり、国衛の支配から独立し阿蘇大宮司は社家の統轄とともに荘園領主への年貢所当貢進をおこなう義務をおい阿蘇郡内の支配者と
して地域武士団の統率者となりました。
- 1086年 第73代 堀河天皇即位
- 1096年
- 第73代 堀河天皇元年2月、大宮司 阿蘇惟行は阿蘇神社の神護寺として青龍寺を僧慶円に建てさせました。
- 1107年 第74代 鳥羽天皇即位
- 1100年
- 1123年 第75代 崇徳天皇即位
- 1137年 平清盛は中務大輔兼肥後守となりました。
- 1141年 第76代 近衛天皇即位
- 1154年 源為義は子の源為朝が九州で濫行したため右衛門尉を解任。
- 1155年 第77代 後白河天皇即位
- 1158年 第78代 二条天皇即位
- 1159年 源頼朝誕生
- 1165年 第79代 六条天皇即位
- 1167年 平清盛 太政大臣となりました。
- 1168年 第80代 高倉天皇即位
- 1175年 法然 浄土宗を開く
- 1177年 源為朝は13歳のころ乱暴すぎて九州に追いやられ、肥後の阿曽忠国の娘と結婚し、鎮西八郎為朝と称しましたが、1177年に大島に流されたと言われます。
- 1185年 屋島の戦いで源義経は平氏軍を破る。
- 源頼朝は諸国守護・地頭の任命権を獲得。
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1182年 鎌倉時代
- 1180年 第81代 安徳天皇即位
- 阿蘇惟安、菊池隆直らは平家に背く。源頼朝は挙兵しました。
- 1183年 第82代 後鳥羽天皇即位
- 1184年 平氏追討の大将軍として京都に派遣され木曽義仲を討ち、2月には一ノ谷の戦いで平氏軍を討ちました。
- 1185年 源頼朝は平氏を壇ノ浦で滅ぼしました。守護・地頭を設置
- 1189年 源頼朝は陸奥で藤原秀衡に攻められ自殺。
- 1192年 封建制
- 1192年 鎌倉幕府成立。源頼朝 征夷大将軍となりました。
- 1193年 相良氏は遠江国相良荘の東国ご家人であったが、相良頼景は罪のため九州に流され多良木村に入部し、球磨地域を支配しました。
- 1194年
- 阿蘇・健軍・甲佐三社領の偏り。これに伴い、神蔵荘・安富荘が分化成立
- 1197年 肥後国の建久図田帳を作成。
- 1198年 第83代 土御門天皇即位
- 1199年 源頼朝の没により、源頼家 家督相続。北条時政13人の合議制。
1200年 中世では菊池氏の南朝
- 1200年 梶原景時は上洛を企て駿河にて敗死。
- 1203年 源頼家は病のため地頭職を源実朝に譲った後幽閉され翌年殺害されました。
- 源実朝は征夷大将軍。北条時政は執権となりました。
- 1205年 北条義時が執権となりました。
- 1210年 第84代 順徳天皇即位
- 1219年 源氏滅亡。北条氏執権
- 1219年 源実朝は源頼家の子 公暁に殺されが、公暁はまた義時に殺されました。
- 1221年 承久の乱。六波羅探題 設置。
- 1221年 第85代 仲恭天皇即位
- 1221年 第86代 後堀河天皇即位
- 1224年 北条泰時執権となりました。北条時房 連盟となりました。
- 1224年 親鸞 教行信証を著しました。
- 1247年 三浦泰村の乱
- 1252年 宗尊親王 征夷大将軍となりました。
- 1274年 文永の役 元博多に上陸しました。
- 1281年
- 弘安の役 元 高麗軍は壱岐・対馬に襲来、東路軍は博多に迫るが風雨により撤退
- 1293年 鎮西探題を設置。
- 1230年
- 1232年 第87代 四条天皇即位
- 1239年 阿蘇山噴火
- 1240年 阿蘇山噴火
- 1253年 日蓮 法華宗を開く。
- 肥後国守護 名越時章
- 1265年 阿蘇山噴火
- 1269年 阿蘇山噴火
- 1271年 阿蘇山噴火
- 1272年 阿蘇山噴火
- 肥後国守護 武藤資能
- 1273年 阿蘇山噴火
- 1274年 蒙古襲来 文永の役で肥後御家人竹崎季長 活躍。
- 1276年 肥後国守護 安達泰成
- 1281年 阿蘇山噴火
- 1283年 兼好法師誕生 徒然草
- 1286年 阿蘇山噴火
- 肥後国守護 北条貞時
- 1293年?肥後国守護 金沢政顕
- 1300年
- 1305年 阿蘇山噴火
- 1321年 後醍醐天皇の親政開始。
- 1327年 肥後国守護 規矩高政
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1329年 北朝時代
- 1324年 阿蘇山噴火
- 1331年 阿蘇山噴火
- 1332年 阿蘇山噴火
- 1333年 阿蘇山噴火
- 後醍醐天皇 隠岐を脱出。足利尊氏 六波羅探題を破る。
- 新田義貞は鎌倉を攻めたため、北条高時を自殺に追い込み鎌倉幕府滅亡。
- 菊池武時
武房は博多の鎮西探題館を襲撃し戦死。(2006.1.28ご指摘により一部修正)
- 菊池武時
武房の子 菊池武重は肥後守となる。(2006.1.28ご指摘により一部修正)
1334年 南朝時代
- 1334年 建武の新政足利尊氏は湊川の戦いで楠正成軍を滅ぼしました。
- 1335年 阿蘇山噴火
- 肥後国室町幕府守護 大友氏泰
- 肥後国室町幕府守護 少弐頼尚
- 1336年 阿蘇惟直、菊池、筑前らは足利尊氏に敗北しました。
- 1338年 足利尊氏 征夷大将軍となりました。
- 1340年 阿蘇山噴火
- 1343年 阿蘇山噴火
- 1348年 肥後国室町幕府守護 一色直司
- 1354年 荘園制の崩壊。
- 1357年 肥後国室町幕府守護 菊池武光(南朝方)
- 1359年 肥後国室町幕府守護 大友氏時
- 1360年 阿蘇宮火災。
- 1361年 肥後国室町幕府守護 阿蘇惟澄
- 1362年 阿蘇惟村は幕府から肥後国守護に補任。
- 1365年 阿蘇宮 落成遷座。
- 1368年 足利義満 征夷大将軍となりました。
- 1371年 今川貞世 鎮西探題となりました。
- 1371年
- 明は懐良親王を 日本国王 に封じました。
- 南北朝時代には阿蘇大宮司家は二派に分かれ、阿蘇の南郷、益城の矢部にそれぞれ本拠を置いて内紛を繰り広げました。
- 1372年
- 今川了俊が征西将軍宮の拠点や太宰府を占領したため、宮方 懐良親王派であった菊池氏は肥後国に後退しました。
- 1373年 肥後国室町幕府守護 今川貞世
- 1375年 阿蘇山噴火
- 1376年 阿蘇山噴火
- 1377年 隈本と書きましました。
- 1378年 守護領国制の成立。
- 1387年 阿蘇山噴火
- 1388年 阿蘇山噴火
- 1392年 南北朝統一
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1398年 室町時代
- 1400年
- 1402年 守護領国制
- 1422年 阿蘇惟郷と阿蘇惟兼は大宮司職を争いました。
- 1432年 菊池持朝は筑後国守護職を得ました
- 1434年 阿蘇山噴火
- 1438年 阿蘇山噴火
- 1485年 山城国一揆
- 1451年
- 阿蘇惟歳は阿蘇惟忠の養子となり家督を相続しました(阿蘇大宮司家統一)
- 阿蘇大宮司家の2派は統一され肥後国の雄として戦国時代を乗り切りました。
- 1469年 応仁の乱
- 1473年 阿蘇山噴火
- 1474年 阿蘇山噴火
- 1481年 菊池重朝は万句連歌会を開催
- 1485年
- 阿蘇惟憲・相良為続連合軍は益城郡で阿蘇惟家・菊池重朝連合軍を 破りましたた。(幕の平合戦)
- 菊池為邦は豊後国大友氏にやぶれ筑後守護職を失いました。菊池重朝は幕の平の戦いで相良氏、宇土氏に破れ弱体化しました。
- 1485年 阿蘇山噴火
- 1500年
- 1801年 宇土為光は菊池能運を留守に隈府城を襲って守護職を奪いました。
- 菊池政隆は大友氏の支援を受けた阿蘇惟永により追放され、菊池氏は絶えました。
- 1503年 阿蘇宮火災。
- 1505年 菊池老者は阿蘇惟長を菊池氏家督に迎えました。
- 1505年 阿蘇山噴火
- 1506年 阿蘇山噴火
- 1517年 阿蘇惟豊は矢部を奪還しました。
- 1522年 阿蘇山噴火
- 1533年 阿蘇山噴火
- 1542年 阿蘇山噴火
- 1551年 大友宗麟は肥後国を平定しました。
- 1554年 阿蘇宮造営。
- 1558年 阿蘇山噴火
- 1562年 阿蘇山噴火
- 1568年 織田信長 入京
- 1573年 阿蘇山噴火
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1574年 安土桃山時代
- 1574年 阿蘇山噴火
- 1576年 阿蘇山噴火
- 1576年 織田信長 安土城を建築し移りました。
- 1580年 島津義久は肥後国南部を占領しました。
- 1582年 織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺されました。
- 羽柴秀吉は明智光秀を討ちました。
- 1582年 阿蘇山噴火
- 1582年 織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺されました。
- 羽柴秀吉は明智光秀を討ちました。
- 1582年 太閤検地の開始
- 1583年 阿蘇山噴火
- 1584年 阿蘇山噴火
- 1585年 豊臣秀吉は関白になりました
- 1586年 豊臣秀吉 太政大臣となりました。
- 島津義久は阿蘇高森城を攻め肥後国を平定しました。
- 1587年 阿蘇山噴火
- 佐々成政(〜1588年)は1585年、秀吉に富山を攻められ降伏しましたが、信雄のとりなしで許された。その後、1587年に秀吉の九州平定後、肥後国をあたえられた際、秀吉から肥後統治についてのきびしい条件を課せられ、翌年肥後に大規模な肥後国衆一揆がおきたため、ついに切腹を命じられました。
- 佐々成政は尾張国の生まれで、戦国期〜安土桃山時代の武将であり、父は佐々盛政。織田信長につかえました。1573年 越前の朝倉氏を攻め、1575年長篠の戦、北陸一向一揆平定に功績がありました。1575年(天正3)越前国府中、のち越中富山一国をあたえられました。柴田勝家の与力であったことから、1582年 能寺の変後は反羽柴(豊臣)秀吉方となり、1583年の賤ヶ岳の戦では勝家の滅亡後に降伏しました。さらに翌年の小牧・長久手の戦でも織田信雄(のぶかつ)、徳川家康とむすび、富山にあって秀吉と対抗しました。この時、秀吉と信雄、家康との間に和議が成立したことを不満とし、冬の立山連峰を越えて浜松におもむいた話は有名といいます。
- 〜肥後国熊本大名 佐々成政 入国。
- 〜肥後国人吉大名 相良頼房 〃
- 肥後国にて佐々成政が3年間禁止と言われた検地を強行し、在地領主の支配権をさらに削減しようとしたため、国衆一揆(在地領主)が発生しました。豊臣秀吉は北野茶会を中止して2万人の軍隊を動員して弾圧しました。
- 1588年 豊臣秀吉は刀狩り令を発しました
- 〜肥後国熊本大名 加藤清正 入国。検地開始。
- 〜肥後国宇土大名 小西行長 〃
- 1590年 豊臣秀吉は全国統一しました。
- 1592年 阿蘇山噴火
- 1592年(文禄元) 加藤清正は文禄・慶長の役でいずれも朝鮮半島に行き前線の大将として奮戦しました。とくに文禄の役では、漢城(ソウル)をおとして朝鮮の2王子をとらえ、現在のロシア領あたりまで兵をすすめました。このときの虎退治の話は、清正の武勇のイメージから後世つくられたものです。
- 1598年 阿蘇山噴火
- 1600年 関ヶ原の戦いで徳川家康は石田三成 西軍を打破る。
- 加藤清正 32万石を加封され51万石になりました。
1600年 近世では国衆一揆、天草・島原の乱
- 1600年 大名知行制
- 加藤清正 かとうきよまさ(1562〜161年)安土桃山時代〜江戸初期の武将、大名。幼名は夜叉丸(やしゃまる)、元服して虎之助(とらのすけ)清正。
尾張国愛智郡中村(名古屋市)の出身。同郷の縁で幼少から豊臣秀吉につかえました。秀吉子飼いの家臣としてさまざまな戦いに参加し、とくに1583年(天正11)の柴田勝家との賤ヶ岳の戦ではなばなしい戦功をあげ、のち賤ヶ岳七本槍のひとりとしてたたえられました。1586年、主計頭(かずえのかみ)となり、1588年には肥後国北半分をあたえられた。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で東軍についた功績で、天草・球磨(くま)郡をのぞく肥後一国をあたえられた。領内の河川改修や新田開発につとめ、肥後の経済基盤をかため、武勇にすぐれていただけでなく、若い時には兵站(へいたん)業務や豊臣政権の直轄領の代官もつとめており、経済にも通じていたといわれています。日本三名城のひとつの熊本城を築城し、城下町経営にも才能をしめしたため、大名統制策として諸大名を建築・土木事業にかりたてた江戸幕府から重用され、江戸城・名古屋城の普請工事にもたずさわりました。また熱心な日蓮宗信者で、はやくから領内寺院の復興をはかり、キリシタン信徒への弾圧策をとりました。
- 1601年 茶臼山新城(熊本城)着工。




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1603年 江戸時代
<参勤交代のルート>
- ■豊後ルート(1ケ月)
- <豊後街道>
- ◎熊本城
- ↓
- 大津(大津街道)5里20km
- ↓
- 清正公道
- ↓
- 二重峠
- ↓
- 車帰坂
- ↓
- 牛王水
- ↓
- 的石茶屋
- ↓
- 内牧
- ↓
- 一の宮
- ↓
- 坂梨(大阪に坂無し、坂梨に坂あり)
- ↓
- 乙護法堂
- ↓
- 大利の石宮
- ↓
- 山鹿の石宮
- ↓
- 久住
- ↓
- 大分県豊後鶴崎
- ↓
- 船で瀬戸内海
- ↓
- 室津
- ↓
- 山陽道
- ↓
- 東海道
- ↓
- ◎江戸城
- ■豊前ルート(1ケ月)
- 熊本城→玉名郡関町(南関町)→筑前飯塚(福岡県飯塚市)/豊前川原(福岡県田川町)→小倉→船で瀬戸内海→室津→山陽道→東海道→江戸城
- 1603年 徳川家康征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。
- 1604年 加藤清正は肥後国の1588年から開始した検地の結果を54万石として徳川家康に提出しました。(肥後国検地帳、郡高帳、郷村帳等の作成、)
- 1607年 加藤清正が隈本城落成に伴い隈を嫌い熊とし熊本城と改めました。くまもとのくまは稲作に関係があると言います。緑川改修開始。
- 1611年 阿蘇山噴火
- 1611年(慶長16) 加藤清正は幕府に忠節をつくしながら、秀吉子飼いの家臣として豊臣家の存続にも心をくだき、徳川家康と豊臣秀頼の会見を成功させたが、秀頼につきしたがったその会見の帰路に死去
しました。加藤忠広が相続しました。徳川方の毒殺説も生まれています。朝鮮から来た官人のキンカン殉死。
- 1612年 阿蘇山噴火
- 1612年 キリスト教禁止令
- 1613年 阿蘇山噴火
- 1615年 大阪夏の陣 豊臣秀頼は自殺し豊臣氏滅亡。
- 1620年 阿蘇山噴火
- 1631年 阿蘇山噴火
-
- 1632年
- ・徳川秀忠が死去し徳川家光が第3代将軍となりました。
- ・徳川家光から加藤忠広は子 光弘とともに謀反の疑いをかけられ加藤忠広は出羽 庄内に改易されました。
- ・かわりに肥後藩主を引き継いだのは豊前 小倉城主である細川忠利でした。
- 54万石で入封し、家老制をしき惣庄屋を設置した手永制をとりました。細川忠興(ただおき)は引退していたので息子の忠利の肥後国への転封に伴い八代城へ移りました。
- 1634年
- 鉄眼和尚は肥後国の浄土真宗三宝寺に誕生し7歳で父親から経を習い13歳で得度しました。堕落した仏教社会に疑問を持ち長崎に来ていた中国 万福寺の高僧隠元禅師に会い“仏は己の心の中にある”と教えられ感銘し、一切経刻版を志しました。
- 1635年 第三回鎖国令。
- 1637年 島原の乱(天草四郎時貞キリシタン農民は圧政に抗議して叛乱)
- 1637年 阿蘇山噴火
- 1639年 日本は鎖国しました。
- 1640年 寛永17年 肥後国 細川忠利藩主は宮本武蔵を300石で肥後国に招き熊本城下千葉城に住まわせました。5年後に死去。
- 1645年 宮本武蔵(1584〜1645年)肥後国へ行きました。
- 当理流兵法 十手の使手 宮本無二之助の子として美作/播磨に生まれました。二刀流(円明流)を使い60回もの戦いに無敗といいます。29歳の時、巌流島で佐々木小次郎を破り一躍有名になりました。
- 1634年 小倉藩主 小笠原家に招かれ小倉で6年間すごしました。
- 1640年 肥後藩 細川忠利に57歳で招かれ、兵法35ケ条を献上し、兵法を藩士に伝授しました。泰勝寺 春山和尚から二天の法号を与えられ二天一流と称し、1643年 岩戸山観音/金峰山西方の霊巌堂で座禅しながら兵法を地水火風空の五輪にあてはめた“五輪書”をあらわしました。
- 最後に1645年 “独行道”21ケ条を残して62歳で没し、杉並木が今でも残る大津街道沿いの武蔵塚に葬られたと言われます。これは“亡き後も肥後国藩主の参勤交代の無事を見守りたい”と云う遺言によると云われます。
- 養子の宮本伊織は小倉の延命寺に墓碑を建てました。尚、武蔵の墓はもう一つ、熊本市島崎町霊寿庵裏(高弟 寺尾家墓所 貞岳玄信居士)にもあります。
- 熊本市島崎の島崎美術館には、宮本武蔵肖像画、枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)が等が展示されています。
- 1649年 阿蘇山噴火
- 1651年 郷帳を幕府に提出。
- 1657年 徳川光圀は「大日本史」の編纂開始。江戸で振り袖火事発生。。
- 1668年 阿蘇山噴火
- 1675年 阿蘇山噴火
- 1683年 阿蘇山噴火
- 1687年
- 鉄眼和尚は一切経刻版6956巻(版木6万枚、高さにして1818m)を高尚な志に共感した人々に助けられ、自らは仏の教えを説き資金集(数百億円)めに行脚しながら完成させ没しました。
- 1691年 阿蘇山噴火
- 1700年
- 1708年 阿蘇山噴火
- 1709年 阿蘇山噴火。徳川家宣は新井白石を登用する。
- 1720年
- 細川重賢(ほそかわしげかた 1720〜1985年)は、肥後国 6代藩主宣紀(のぶのり)の5男に生まれたが、兄3人が早世し長じた兄の宗孝が1732年(享保17)に藩主になった際に仮養子となりました。
- 1747年(延享4)、
- 江戸城で宗孝が旗本板倉勝該(かつかね)に殺害されました事件がおきたため藩主を継ぐことになりました。当時、藩財政は参勤交代の費用が捻出出来ずにしばしば出発が延期されたほど窮乏しています。
- 1748年
- 細川重賢は(寛延元)の初入国時に財政再建を掲げて宝暦の改革に乗り出した。重賢は、堀平太左衛門を大奉行に抜擢し、改革の推進者とし、行政機構の整備、検地の一種である地引合による隠田摘発と定免(じょうめん)制の実施、櫨(はぜ)や蝋の殖産と専売などを断行しました。
- 1751年 肥後藩は財政再建のため殖産興業の一環として櫨蝋の専売開始。
- 1754年
- 細川重賢は(宝暦4)に「刑法草書」を制定した。これは、諸藩が幕府の公事方御定書にならう時流を無視して、鞭打刑や懲役刑によって再犯防止をはかる画期的なものであり、人材育成にも努めました。
- 1755年
- 細川重賢は藩校時習館や薬園を併設しました医学寮 再春館では、庶民の子らにも門戸を開きました。時習館では学者の詩人儒者 秋山玉山や朱子学者 藪孤山をそろえ、文学、武術、兵学等を教えました。藩士の子 8歳から16歳まであり、以降試験により上級学科に進めました。また、留学制度もありました。
- 1756年
- (宝暦6)肥後藩主細川重賢により蕃滋園(ばんじえん)が創立され、熊本医科大学と熊本薬学専門学校の基となりました。
- 1765年 阿蘇山噴火
- 1781年 八代宮地で木村喜八郎は高級和紙を製造しました。
-
- 1800年
- 1804年 阿蘇山噴火
- 1806年 阿蘇山噴火
- 1809年〜1869年
- 横井小楠は横井時直(肥後藩士)の次男として熊本市坪井に生まれる。藩校「時習館」で居寮長となり、江戸留学後私塾「小楠塾」を開設し、その教えは、実際に役立つ学問を掲げた“実学党”を生む。これ以外に肥後には、保守的な“学校党”、尊皇攘夷の“勤王党”が発生した。
- 1814年 阿蘇山噴火
- 1815年 阿蘇山噴火
- 1816年 阿蘇山噴火
- 1820年
- 宮部鼎蔵は益城郡田代村(上益城郡御船町上野)に生まれた。生家近くには長い眼鏡橋(八勢橋)やスキー/キャンプが出来る大矢野原がある。山鹿流軍学を学び30歳にて肥後藩の軍学師範後、林桜園
に師事して国学古典を知る。
- 1825年 異国船打払い令
- 1826年 阿蘇山噴火
- 1827年 阿蘇山噴火 原野荒れる
- 1828年 阿蘇山噴火
- 1830年 阿蘇山噴火
- 1831年 阿蘇山噴火
- 1832年 阿蘇山噴火
- 1833年 横井小楠は時習館居寮生となりました。
- 1834年 矢島揖子は上益城郡に生れ、40歳で上都し教員になり、キリスト教の洗礼を受けた後、校長を経て日本基督教婦人矯風会会頭になりました。
- 1835年 阿蘇山噴火
- 1836年 横井小楠は講堂世話役、居寮世話役を任命されました。
- 1837年 阿蘇山噴火
- 横井小楠は居寮制度を改革し、居寮長を任命されました。
- 1838年 阿蘇山噴火
- 1839年 3月 横井小楠は江戸へ遊学出発。
- 1840年
- 2月 横井小楠は江戸にて酒の上での過失により熊本へ帰国させられ、逼塞(ひっそく:昼間の出入り禁止)処分となりました。
- 1841年
- 横井小楠33歳は横井小楠は、藩政改革の一環として「時務策」(@贅沢を禁じ下級武士や民衆に施すこと。A農民離村防止として自営農推進B商人と藩権力との癒着禁止)を起草しましたが肥後藩では肥後藩制批判として受け入れられませんでした。
- 1843年
- 横井小楠は講学し、同志は実学党を結成しはじめました。私塾に徳富一敬らが入門しました。
- 1844年
- 井上毅いのうえこわし(1844〜1895)熊本藩士の子として誕生し井上家の養子となり、藩校時習館でまなびました。1872年には岩倉使節団に加わり渡欧し、ドイツ・フランス国の司法と行政を調査し、帰国してからは法制の整備に務めました。明治14年には大隈重信の追放に加わりました。後に大日本帝国憲法を起草する事になります
- 手野の庄屋山部兵助が、古城を開墾中に横穴古墳が発見されました。
- 1845年 横井小楠は感懐の詩十首作成による実学決意。
- 1846年 横井小楠は兄の厄介として相撲町へ移住。
- 1847年 横井小楠は私塾 小楠堂を新築。
- 1849年 越前国 福井藩士 三寺三作が横井小楠を訪問。
- 1851年 横井小楠43歳は上方から北陸地方を遊歴しまし8月熊本へ帰国しました。
- 1852年
- 3月「学校問答集」を福井藩へ送りました。その後、横井小楠は福井藩に招かれ“明道館”の校長となりました。
- 北里柴三郎博士(1852年〜1931年)は、嘉永5年に熊本県阿蘇郡小国町の惣庄屋に生まれる。
- 1853年
- 1月 横井小楠は「文武一途の説」を越前藩へ送りました。
- ペリー 浦賀に来航。
- 10月 横井小楠は「夷虜応接大意」を著しました。
- 1854年 阿蘇山噴火
- 9月 横井小楠は兄の家督を相続しました。
- 松本喜三郎は生人形作りの名人でした。1854年 大阪に鎮西八郎の人形を出した。
- 1855年から1868年間
- 5月 横井小楠は秋津町沼山津へ転居しました。(ここには坂本龍馬も訪れました)又、長岡監物と絶交し、水戸も非難しました。11月妻のひさが亡くなりました。
- [横井小楠宅(四時軒)旧宅隣に資料館が設立されています。また、四時軒から10分の沼山津神社先に小楠公園があり、墓があり銅像も建っています。]
- 1856年
- 横井小楠は矢島つせと再婚しました。阿蘇山噴火
- 吉田松蔭はこの頃、萩に松下村塾を創設しています。
- 1857年 横井小楠は福井藩から招待交渉されました。
- 1858年
- 安政の大獄
- 4月 横井小楠は福井藩へ招かれ着任しました。
- 1859年 横井小楠は福井藩で富国策を推進しました。
- 1860年
- 桜田門外の変
- 横井小楠は福井藩で越前国是を策定しました。「国是三論」(@開国貿易A経済政策B海軍軍備充実)を主張。
- 1861年
- 宮部鼎蔵は、諸藩からから選抜された三千人の勤王党親兵の総監に任命され三条総督の下で働きました。
- 横井小楠は福井藩主の政事総裁松平慶永の要請で江戸に出て、10月福井経由で熊本へ帰国しました。
- 1862年
- 6月 横井小楠は福井経由で7月江戸へ向かわされました。
- 9月 “約必戦・全国会議・開国”論を提案しました。
- 横井小楠は、幕府政治総裁となった松平春嶽の要請に応え「国是7ケ条」(@将軍は上洛せよA参勤交代制度の廃止B大名の妻子を国元に帰せC賢人を選んで政官とせよD大いに言路を開き天下公共の政をなせE海軍を興し兵威を強化しろF相対貿易を止め、官による交易となせ)を作成しました。
- 12月 横井小楠は、肥後藩江戸留守居役 吉田らと宴会に刺客に襲われたときに帯刀していなかったという理由により、国元から肥後へ閉居させられ失脚しました。
- 松平容保は京都守護職となりました。
- 1863年 長州藩 下関で外国船を砲撃。薩英戦争勃発。
- 八月十八日の変(七卿落ち)
- 伊藤博文・井上馨らは英国留学。
- 1863年
- 徳富蘇峰(1863〜1957年)は、郷士の子として水俣市で生まれた。徳富蘆花の兄になりました。熊本洋学校でキリスト教二に感銘を受け同志社に入学し、新島襄から洗礼を受けた。熊本に帰り大江義塾を開校しました。「将来之日本」で注目を浴びると民有社を起こして、国民之友や国民新聞を創刊し、平民主義(個人の権利、平等な社会)を唱えた。その後、日清戦争を機にして国家主義、軍国主義および皇室中心主義となり、日米開戦時には宣戦の詔勅を起草し、敗戦後は戦氾容疑者として公職追放となった。「近世日本国民史」100巻を発行している。
- 1864年
- 横井小楠は「海軍問答集」を著しました。また、甥の左平太・大平兄弟を勝海舟の神戸海軍操練所へ入所させました。
- 宮部鼎蔵は、萩藩士 吉田松蔭とも交友があり尊皇攘夷の道をまっしぐらに突き進んだが、京都三条 池田屋事件に遭遇し対談中、新撰組/会津藩に襲われ、はからずも志目前にしながら45歳で自決しました。1913年 鼎春園が阿蘇外輪山ふもとの生家近くに作られました。名前は弟“宮部春蔵”(脱藩して兄を追い京都で幕府軍と戦い天王山で自決)と一字づつ取ってつけられました。また、宮部鼎蔵の墓は、熊大裏 黒髪の小峰墓地にあります。
- 7月11日 京都三条木屋町において松代藩士 佐久間象山は、肥後の河上彦斎らに殺害されました。理由は、西洋学を唱え交易開港を主張するからと言うもので、時代がほんのもう少し後であれば、当たり前の主張でした。この後、時代の流れは大きく変わります。佐久間象山はかねてより、革新的な“東洋の道徳と、西洋の芸術”を唱えていました。
- 禁門の変
- 新島襄は米国へ密出国。
- 肥後藩は第一次長州征伐に出兵。
- 1865年 (慶応元年)
- 5月 坂本龍馬は鹿児島に西郷隆盛を訪ね薩長和解周旋を依頼された帰路、熊本の横井小楠を訪ねました。その後、太宰府の三条実美を訪問しました。
- 元田永孚は「沼山閉話」に横井小楠との事を書き残しました
- 1866年
- 薩長同盟。
- 徳川慶喜 征夷大将軍となりました。
- 肥後藩は第二次長州征伐に出兵。
- 横井小楠は甥をアメリカへ留学させました。
- 1867年
- 横井小楠は松平慶永へ建白。大政奉還。王政復古の大号令。
- 坂本龍馬・中岡慎太郎は京都で暗殺されました。
- 1867年
- 第122代 明治天皇即位
- 熊本藩士 荘村省三は熊本藩命によりピストルを輸入しました。一丁は桂小五郎に贈呈し、坂本龍馬に見せています。一方、宣教師フルベッキから聖書(漢訳ょ)を入手し洗礼をうけたと云われます。
-
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1868年 近代 明治維新
- 氏族による西南戦争参加、国権党の進出
- 石造眼鏡橋の架橋。八代郡東陽村はかって種山村といい江戸時代から大正時代にかけて石工職人が多く住み種山石工の発祥の地でした。石工としては祖 藤原林七、岩永三五郎、橋本甚五郎らが名声を得て全国に眼鏡橋を作りました。皇居の旧二重橋も熊本の石工の一人 橋本甚五郎が造ったと言いします。
- 1868年 戊辰戦争開始。
- 五箇条のご誓文。
- 江戸城開城。
- 横井小楠は新政府から参与を任命されました。
- 肥後藩に国学者 木原楯臣(藤園)があり、「観古雑帳」を発行しました。
- 神仏分離 廃仏毀釈
- 徳富蘆花(1868〜1927年)は、熊本に生まれ、同志社に入学後、帰郷してキリスト教の洗礼をうけました。「不如帰」は明治時代のベストセラーになった。西南戦争を背景にした物語も好評であった。伝記「トルストイ」を刊行した。晩年は道義的な生き方をし、死の前日、兄と和解したといいます。
- 1869年 東京遷都。
- 1横井小楠は、京都 寺町丸太町にて攘夷者に暗殺されました。
- 五稜郭の戦い(榎本武揚、土方歳像)
- 版籍奉還により、藩主は知藩事になりました。公卿・諸侯は華族と呼称。
- 肥後藩主 細川韶邦は熊本藩知事となりました。肥後藩→熊本藩と名称変更
- 蝦夷地を北海道と改称。
- 大村益次郎 襲撃され死亡。
- 「天道覚明論」が阿蘇神社に投げ込まれました。(横井小楠との噂)
- 横井小楠は61歳という高齢ながらも経済ノウハウを認められ新政府に出仕しておりましたが、京都で島根の上田立夫に暗殺されました。
- 肥後藩は手永に御山支配役を置いて植林に務めたと言われますが、橋本武次郎は小国に生まれ、山林改良に尽くし、小国を山林王国に育て上げました。
- 1870年 (明治3年)平民の苗字を許可した。
- 細川護久は知事となり、実学党を重用し、減税、藩役人削減、藩校(時習館、再春館を廃止して医学校を建設した。しかし、急激な財政改革のため1873年には安岡良亮に知事を交代し、実学党も追われた。)
- 1870年 平民の苗字使用許可されました。
- 1871年 (明治4年)
- 日本は廃藩置県の整理後3府82県となりました。
- 河上彦斎は明治維新政府が成立後も、攘夷を唱えていたため逮捕され38歳で斬罪されました。
- 細川護久は教育界改革に乗り出し、男女共学の洋学校を設立しました。教師としてはアメリカの南北戦争に従軍経験がある北軍大尉ジェーンズを招きました。教科書も講義も英語で自然科学、数学および歴史を一人で教えたと云います。横井みや子(横井小楠の娘)や徳富初子(徳富蘇峰の姉)らが入学しました。海老名弾正や徳富蘇峰らは熊本バンドを結成し、同志社に移りました。
- 1871年 廃藩置県で肥後藩→熊本県/人吉県、1871年 熊本県/八代県
- 1872年 太陽暦採用。
- 1872年 福沢諭吉 「学問のすすめ」発刊。
- 1872年 (明治5年)
- 井上毅は岩倉使節団にくわって渡欧し、フランス・ドイツで司法行政を調査した。帰国後、大久保利通、伊藤博文の信任をえて法制を整備しました。
- 1872年 阿蘇山噴火
- 1872年 明治5年 肥後国ををそのまま熊本県として成立しました。
- 1872年 熊本県は白川県と改称され、八代県を吸収。
- 1873年 全国に鎮台設置。徴兵令。
- 征韓派敗北。
- 阿蘇郡内(湯浦、波野、楢木野、荻岳、産山、)/大分県(久住)には、細川家の九曜紋が刻まれた顕彰碑の知事塔が道路沿・神社付近に建てられました。これは、1870年 細川護久が藩知事になって、横井小楠 実学党の山田武甫・徳富一敬・竹崎茶堂らによる肥後の維新改革の一つである減税によるものと思われます。
- 1873年
- 1874年
- 1874年 (明治7)熊本師範学校が創設されました。
- 1874年 板垣退助は立志社創立しました。
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- 1876年 熊本県に戻る。
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- 神風連の乱 熊本敬神党ともいう肥後勤王党から生まれた復古主義の神風連 士族約170名は新政府から廃刀令・断髪令が出されると、このままでは神国が滅びると新開皇太神宮太田黒伴雄を総師として安岡県令らを襲撃したが近代兵器で武装した新政府軍には勝てずに敗北しました。
- 1876年 神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
- 1877年 西南戦争勃発
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- 2月19日 熊本城は炎上しました。薩摩軍は雪の降る日に鹿児島県を出陣し、熊本鎮台を包囲しました。
- 3月20日 薩摩軍は博多から南下した政府軍と激戦しましたが、田原坂の戦いで、薩摩軍は敗北し、4/15日から退却を開始しました。西郷隆盛は鹿児島の城山に立て籠もり最後の戦いを挑みましたが9月 多くは自刃や戦死して西南戦争は国内の戦争としては最後になり終結しました。
- 4月16日 熊本県庁は熊本城内に復帰しました。
- 1877年 熊本県 玉名・菊池・山鹿・山本郡にて農民一揆
- 1878年 大久保利通 暗殺されました。
- 1881年
- 井上毅は伊藤に協力し明治14年の政変にて大隈重信追放した。政変後、参事院議官として大日本帝国憲法を起草し、国会開設にも努力した。また教育勅語の起草と制定に尽力した。第2次伊藤博文内閣では文部大臣として高等学校令などを制定して近代教育制度の充実をはかりました。
- 1882年 井上馨 条約改正交渉開始。
- 1884年 華族令
- 1877年
- 2月 西南の役が始まり大雪の中、西郷隆盛が率いる薩摩軍1万3千人は、政府に尋問のため上京しましたと熊本鎮台に通告し、熊本城を攻撃しながら各地に展開しました。迎え撃つ官軍の中には、警視隊として会津藩家老 佐川官兵衛がおりました。警視隊は大分から阿蘇に入り、立野駅陣取った薩摩軍に攻撃をかけましたが、不運にも戦闘中に被弾し死亡。戦場地となった場所に西南公園として西南の役の慰霊碑があります。結局、10月 薩摩軍は官軍に押され西郷隆盛は股に被弾後 自刃し、戦争は終結しました。
- 余談ながら、西郷隆盛の先祖は、6代前に江戸時代元禄期、肥後菊池一族の西郷九兵衛が薩摩に移り住み島津氏に仕えたと言われま。
- 1884年 阿蘇山大爆発
- 1887年 第五高等中学校創設
- 1889年 大日本帝国憲法施行
- 井上毅は大久保利通・伊藤博文の信任を得て参事院議官としてこの大日本帝国憲法を起草しました。
- 肥後大矢野家から、肥後御家人竹崎季長の蒙古襲来絵巻が明治天皇へ献上されました。
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- 1890年 府県制・郡制
- ・元田永孚(もとだ ながざね 1818〜1891年) 文政元年 熊本藩士の家に生まれ、藩校時習館で儒学や横井小楠に学び明治維新後、大久保利通の推挙により明治天皇の侍読、侍講となり宮内省に務め、国民教化の基本は祖宗の訓典とし天皇を中心にした国家体制の構築から“教学聖旨”を起草しました。1890年、山県有朋首相の命令により井上毅と“教育勅語”を起草しました。
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- 新島 襄 没。---上野藩士の子として江戸藩邸でうまれました。キリスト教伝道者で同志社の創立者で徳富蘇峰・徳富蘆花にキリスト教社会主義を教えました。
- 1894年 日清戦争開始。
- 1894年 阿蘇山大爆発
- 1894年
- 高群逸枝(1894〜1964年)は、松橋町で生まれた。文才があり24歳で娘巡礼記を新聞連載しました。上京して“日月の上に”で文壇に入り、平塚ららいてうと無産婦人芸術同盟を結成して“婦人戦線”を発刊した。女性が虐げられている世の中に矛盾を感じて女性解放に立ち上がり、女性史研究に取り組み「大日本女性人名辞典」を出版した。久具に“望郷子守歌の碑”がある。
- 1894年 北里柴三郎は、香港でペスト菌を発見しています。
- 1895年 井上毅 没
- 1896年
- 夏目漱石は高等師範学校職を辞して松山中学英語教師から熊本第五高等学校に転任。人間観察を小説に繁栄しています。
- 1897年
- 1900年
- 1904年 日露戦争開始。
- 1905年 田山花袋は日本一周の途中、人吉に寄り球磨焼酎を飲んだ。

- 1906年 阿蘇山千里が浜で噴火
- 1906年 熊本高等工業学校発足。
- 1907年
- 1908年
- 1910年
- 1911年
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1912年 大正時代
- 第123代 大正天皇即位
- 1912年 乃木希典夫妻殉死
- 1914年 第一次世界大戦に参戦しました。
- 1916年
- 種田山頭火(1882〜1940年)は、山口県防府市に地主の長男として生まれ、山口尋常中学校を優秀な成績で卒業後、早稲田大学を神経衰弱のため中退し、家業(酒造業)を手伝い結婚(のち離婚)もして、萩原井泉水から俳句を学んでいましたが、倒産のため妻子ともども熊本市内へのがれ、古書店を営んだもののふるわず、1919年に上京し関東大震災にあい、再び熊本へ帰ったももの酒癖が悪く報恩寺(曹洞宗)で禅門にはいり出家して味取り観音堂の堂守となりました。1926年家出し九州、四国そして郷里 山口地方を放浪(行乞(ぎょうこつ))し俳句を詠みました。この時、阿蘇にも立ち寄ったようです。その俳風は575、季語および形式にとらわれず、自由で率直に表現しています。晩年、かって巡った四国松山市 御幸寺境内に草庵を結び、やっと定住し俳句三昧に浸りましたが脳溢血で急死しました。財産・名声とかには執着せず、気のおもむくままに西日本を漂泊しました。人には恨まれるようなことはなく支援する人もおりました。松尾芭蕉と小林一茶とどちらが好きかと問われ芭蕉と答えたそうです。残された俳句等をみますと、美辞麗句のないストレートな表現で、私もいきなり好きになりましたる。
- “分け入れば水の音” “分け入っても分け入っても青い山” “松はみな枝垂れて南無観世音”
- 山行水行 (種田山頭火 作)−−−詩吟の教書にも掲載され、家内が吟じてくれました。情景が目に浮かびます。阿蘇を思い出しました。山は良い、自然も良い。
- 山あれば山を見る 雨の日は雨を聞く 春夏秋冬あしたもよろし ゆうべもよろし天われを殺さずして 詩を作らしむ われ生きて詩を作らしむ われ自らの誠なる詩を。
- 1918年
- 1919年
- 1920年
- 1920年 (大正9)に熊本県農業教員養成所 創設されました。
- 1923年
- 1924年 鹿本郡生まれの清浦奎吾は首相となりました。
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1926年 昭和時代
- 1926年 第124代 昭和天皇即位
- 日本は1都1道2府43県。
- 1927年
- 1928年
- 1929年
- 昭和4年のこの年、山口県生まれ放浪の自由律 俳人 種田山頭火は、熊本にも住んでいましたが、昭和4年に九州行乞の旅に出て、同年秋も深まった11月30日、阿蘇にも立ち寄り、さらに大分 英彦山にも登っています。
- 1930年
- 北里柴三郎博士(1852年〜1931年)は、嘉永5年に熊本県阿蘇郡小国町の惣庄屋に生まれ藩校時習館にてマンスフェルトに学んだ後、古城医学校(洋学校)→東大医学部卒業し、内務省衛生局にてドイツ ベルリン大学留学でコッホに師事時、破傷風血清療法を創始しました。M25年帰国後、伝染病研究所創立→北里研究所創立→慶応医学科長となり医学部の基礎を築きました。又、1894年には香港でペスト菌を発見しています。
- 1931年 (昭和3年)阿蘇国立公園協会設立されました。
- 北里柴三郎 没。
- 1932年
- 1933年 阿蘇山大爆発
- 1934年
- 1935年
- 1936年
- 熊本県出身 植物学者 島田弥市は、原産地がマレー半島の晩白柚を昭和10年に熊本果樹試験場を経由して八代地方にもたらしました。
- 1937年
- 1938年
- 細川護熙(ほそかわもりひろ 1938〜)熊本藩主細川家の第18代当主で、東京都に生まれました。上智大学を卒業後、朝日新聞社をへて、1971年(昭和46)自由民主党から参議院議員に初当選し、1983年に熊本県知事となった。日本一づくり運動を推進したほか、劇場・美術館を充実させるなど2期にわたって文化環境の整備につとめました。
- 1939年
- 1940年 阿蘇山大爆発
- 1941年 太平洋戦争勃発
- 1941年 阿蘇山大爆発
- 1942年
- 九州新聞は横井小楠の弟子 徳富一敬らの実学党系譜を引いていますが、徳富蘇峰経営の国民新聞ですが、4月九州新聞と九州日々新聞が合併し熊日新聞が誕生しました。
- 1943年
- 1944年
- 11月21日23時 熊本市内は初めて空襲を受け、翌1945年 7月1日 マリアナ基地からB29 154機が飛来し2時間に渡り市街地を焼夷弾1108dにより空襲。家屋のほとんは焼失した。翌8月10日も大空襲。県下の被害状況は死亡1008人、家屋 約1万4千戸にのぼる。
- 1944年
- 1945年 7月熊本市大空襲
- 1945年 広島・長崎に原爆投下され、終戦
- 1945年
- 1946年
- 1947年 阿蘇山大爆発
- 1948年
- 1949年
- 1949年(昭和24) 熊本大学が新生大学として発足した。母体となった6校のうち江戸時代の開校の再春館を発祥としました点で熊本医科大学がもっとも伝統があり、それをうけつぐ医学部は同校を代表しました学部となっている。
- 1950年
- 1951年
- 1953年 阿蘇山大爆発
- 1954年 一町三村が合併し一の宮町が発足。
- 1954年
- 1955年
- 1956年
- 1957年
- 1958年 阿蘇山爆発。
- 1959年
- 1960年 熊本空港開港
- 1960年
- 1962年
- 1963年
- 1964年
- 1965年 舟山古墳出土品は全て国宝となりました。
- 1965年
- 1966年 天草五橋開通しました
- 1966年 阿蘇山火口異常
- 1969年 熊本交通センター開業しました
- 1969年 阿蘇山火口異常
- 1971年 熊本空港は開港しました。高遊原(たかゆうばる)の阿蘇遥拝地に石碑があります。この聖地は猿田彦が天から降臨するときに、霧が濃くて見えなかったが鶏の声に導かれて降りた所が杉堂だといいます。
- 1973年 阿蘇スカイライン開通しました。
- 1974年 阿蘇山噴火
- 1975年 阿蘇地方に群発地震発生。震度5
- 1977年 阿蘇中岳爆発
- 1978年 阿蘇山地震
- 1979年 (昭和54年)圃場整備中に中通古墳群からベンガラが流れ出る。
- 阿蘇中岳爆発
- 1980年
- 1984年 熊本テクノポリス建設計画発表し承認。
- 1984年
- 1985年 第36回全国植樹祭が阿蘇町で開催されました。 (天皇は6回目の来熊)
- 1985年
- 1986年 国鉄高森線は、国鉄から南阿蘇鉄道株に引き継がれる。
- 1987年 公害の原点 水俣病。熊本地裁 賠償を命ずるる
- 熊本市はアメリカ テキサス州のサンアントニオ市と姉妹都市締結。
- 1988年
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1989年 平成時代
- 1989年 第125代 今上天皇即位
- 1990年
- 1990年 雲仙普賢岳 198年ぶりに噴火した。
- 1992年
- 1993年
- 1992年
- 平成4年 細川護熙は、日本新党を結成し参議院議員に復帰後、1993年の総選挙で衆議院議員に当選しました。8月には45年ぶりに日本新党・公明党・社会民主連合・新生党・新党さきがけ・日本社会党(現、社会民主党)・民社党の7党連立による非自民党政権を樹立し首相になりました。衆議院小選挙区比例代表並立制を柱とする政治改革法案を成立させたが、突然の国民福祉税導入の発表がありました。
- 1994年
- 細川護熙は、1994年に総辞職し、12月に日本新党を解党して新生党・民社党などと新進党を結成しました。
- 1995年
- 1998年
- 細川護熙は1996年の総選挙で新進党は議席をへらし、1997年に離党後、1998年に新しい民主党の結成に大きな役割をはたした直後に、「60歳を区切りとしました」として議員を辞職。
- 1999年 熊本国体が開催されました。
- 2000年 平成12年
- 2001年 平成13年
- 2002年 平成14年
- 2003年 平成15年
- 2004年 平成16年
- 2005年 平成17年
- 2月11日 一の宮町、阿蘇町および波野村 2町1村が合併し阿蘇市 誕生しました。
- 南阿蘇村として、長陽村、白水村、久木野村 3村が合併。
- 山都町として、蘇陽町、矢部町および清和村 2町1村が合併。
- 2009年 熊本城では築城400年祭を記念して、本丸御殿が復元されました。
- 2011年3月
- 九州新幹線が2011年3月に全線開通する。これにより、熊本・大分・宮崎への観光旅行や帰省が容易になり喜ばしいことです。特に、熊本には関東・関西地方からだと飛行機であったが、便利になり今までよりより多く訪問や結婚式・葬儀・法事・介護などによる帰省ができます。今まで,新幹線で福岡まで来ても熊本迄 特急で2時間要していたが、大幅に短縮され熊本まで足をのばせます。
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*本HPは政治団体・宗教団体とは一切関係ありません。 |
目次 九州の歴史 熊本の歴史 阿蘇の歴史 |
[参考文献]
・環境史研究会 小畑弘巳 象ケ鼻D遺跡第一次発掘調査概要報告書 一の宮町教育委員会 1998.3
・加藤 巳平 「旧国・県名の誕生」 令文社 1974
・岩本税・水野公寿編 「熊本県の不思議事典」 1995年 |
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