邪馬台国九州説や神武天皇東遷説等の昔話・伝承を初め先人や中国・朝鮮の残した文献を紐解くに連れ、住んでいるところや生まれ育った地域を初め日本列島の事を何も知らないと、今更ながら気づきます。
 旧石器時代・縄文時代はともかくとして、縄文時代後半の5千年前より太古、古代、中世そして近世の人々はどのような生活を営み何をしてきたのか確証を掴んで明確に知りたいと思います。
 中国と朝鮮半島に近く、船で航海し行き来できた九州には、かって邪馬台国があり女王卑弥呼が支配していたと言います。その後日本は大和朝廷に国家統一され発展していきます。
 江戸時代後期には大分 日田市に私塾 咸宜園で漢学を教えた広瀬淡窓が現れました。
これら時代を通じて世に残された遺跡・遺構・・・そして、現代人は後世に何を残していくのでしょうか。
◆旧石器時代
  • 長崎県平戸市山中町の入口遺跡から約9万年前と10万年前の地層から中期旧石器(上層からは尖頭状石器、台形状剥片石器およびチップが、下層からはスクレイパー、ハンマー)が発見されました。現在、日本列島で最古級とされている岩手県宮守村 金取遺跡の9万年前の石器に並ぶ古さです。光ルミネッセンス法で測定(2003.12)
  • 宮崎県川南町では、3万年前の石器が出土したと云います。九州ではこの頃、狩猟人が住んでいたと云うことでしょう。
 
日本列島の地図を眺めると、九州や西日本はやはり中国大陸、朝鮮半島および南海の島々と近く、海流や風にのれば船でなんとかたどり着ける条件がそろっているように見えます。
◆縄文時代
・縄文時代の気候は現在とあまり変わらなかったようです。
縄文時代の日本列島の埴生は、次のようでした。
  • 北海道/本州高地−亜寒帯針葉樹林帯
  • 中部以東−−−−−温帯落葉広葉樹林帯(温帯系と暖帯系の植物が混交)
  • 西日本−−−−−−暖帯常緑広葉樹林帯(照葉樹林帯)
  • 九州地域では広葉樹の森が広がっていました。
<住居跡と土器>
  • 縄文時代後期晩期の竪穴式住居跡は、約1600棟発見されています。
  • 熊本県・宮崎県では、40棟の竪穴式住居が環状に並ぶ定住集落跡が発掘されています。狩猟、漁労、採集の生活を営んでいました。
  • 石器中心です。
  • 夜臼式土器の縄文晩期には、水田がありました。
  • 九州西北部の海岸地域では、曽畑式土器(丸底深鉢で沈線文様を描き滑石粉を混合)が製作されました。
  • 縄文時代中期
    • 阿高式土器が製作されました。
神武天皇東遷説
  久米人・蘇人により構成された久米部(クメ−クマ−肥人)軍隊は、東遷したと云われています。(「阿蘇魂」 編者:山本 S44年)

◆弥生時代
  • 前期(BC3世紀〜BC1世紀)
    • 暖帯系の照葉樹林帯が継続しいました。
    • 食用植物の半栽培へ進歩しました。水稲耕作の本格的な始まりです。
    • 農耕と共に青銅器、鉄器等の初期金属器文化が導入されました。
    • 筑紫平野 奴国(須玖岡本遺跡?)に青銅器の製作所があったのではと言われています。須玖岡本遺跡からはガラス製の勾玉が出土。
    • 朝鮮半島に近い北九州(玄界灘沿)から始まった弥生前期文化は、若狭湾・伊勢湾迄拡大しました。
    • 支石墓、甕棺墓が出現しました。
    • 集落から原始的な濠を巡らしたクニが発生しました。
  • 中期(BC2世紀〜AD1世紀)
    • 弥生式文化は中期になって東日本へ伝播しましたが、南西諸島としては屋久島以南にはおよびませんでした。
    • 瀬戸内海沿岸では、高さ数百mの高地性集落が出現しています。
    • BC100年 倭人は楽浪郡と交渉を持っていました。(漢書 地理志)
    • AD1世紀には原生国家が誕生しており統合への争いが繰り広げられました。
    • 57年 倭人は百余国に分かれ、倭奴国が後漢に遣使しました。(後漢書 東夷伝)
      • 福岡県 志賀島から“漢委奴国王の金印”が出土しています。
  • 後期(AD2世紀〜AD3世紀)
    • 甕棺墓は衰退し石棺墓が盛んとなりました。
    • 107年 
      • 倭国王 師升は後漢安帝に生口160人を献じました。(後漢書 安帝紀)
      • 稲作は東北まで伝わりました。鉄器の普及。
    • 184年 
      • 倭国大乱。
      • 甕棺墓は衰退し、かわりに石棺墓が盛んになりました。
      • 墳丘をもつ首長墓が築かれ始めました。
    • 卑弥呼邪馬台国:ヤマタイコク(邪馬壹国:ヤマイコク)約30カ国連合体の女王になりました。(魏志 倭人伝)
      • 邪馬台国は7万余戸ありました。
      • 卑弥呼のいる王宮は、物見の楼閣や城柵等の防衛施設が整い、武装兵士で防備されていました。法をおかすと妻子は奴隷にされたり、重罪の場合は家族・一門は滅亡させられました。税物を収納する倉庫があり、市が開かれ、物資の交換が行われていました。
      • イキマ・ミマショウ等の4官が設置されていました。
      • 女王国の北にある伊都国には一大卒および大倭(市場監督官)が置かれていました。支配者の者に会うと人は道を譲り草むらに入りました。また、命令を受けるときは「あい」と言いました。
      • このころの水田稲作からみて、邪馬台国は中国・朝鮮半島に海の道で繋がるところから畿内ではなく九州だと推測します。九州だとしたら海沿いなのか内陸部であるのかと考えると、水田稲作地からみて山間部を含めた河川流域だと思います。それにわざわざ海に近い伊都国に官人を置いたと言うことは本国が海から遠かったのではないか。
    • <邪馬台国の九州候補地>
      • 熊本県菊池郡山門郷
      • 福岡県山門郷
      • 熊本県山鹿
      • 熊本県玉名
      • 熊本県下益城郡佐保
    • <畿内説候補地>
      • 奈良県 三輪山山麓
    • 238年 卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡へ派遣して、魏の明帝への謁見と朝貢を申し出ましたので、帯方郡太守は使者に難升米らを魏の洛陽まで案内させました。
    • 239年 
      • 卑弥呼は帯方郡を通じて魏に朝貢使者を送った見返りに魏の明帝から、“親魏倭王の称号と金印・銅鏡”を与えられました。
      • この頃、銅鐸が消滅しています
    • 243年 倭王は8人の使者を中国に送り、生口、赤青絹、綿衣および短弓を献上しました。
    • 245年 小帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国の軍旗を授けました。
    • 247年 邪馬台国連合国南の狗奴国(クナコク)と戦闘し、魏帝から詔や軍旗である黄幢(こうどう)を貰ったものの、卑弥呼はやがて死亡しました。大いなるを造る。直径は百余歩程。一緒に100人あまりが葬られました。
    • 卑弥呼のあとを受けて、男王が後継者となりましたが、諸国は服従せず、抗争が続いて1000人あまりの死者がでました。そこでまた、卑弥呼の一族の女で13歳の壱与:台与(トヨ)を擁立して王としました。これによって国内はやっと収まり収まりました。
    • 266年 
      • 倭の女王が晋に遣使しました。
      • 首長墓は各地で盛んになりました。
◆古墳時代
  • 三世紀後半〜四世紀初頭になると西日本地域には、前方後円墳を初め前方後方墳および円墳等が造築されました。竪穴式石室をもち遺骸は割竹形木棺を納めて埋葬していました。古墳は瀬戸内海沿岸地域に広がっています。(瀬戸内海政権)
    • 前期(3世紀後半〜4世紀)
      • 被葬者は司祭者、宗教的で鏡の副葬品を伴う呪術的な特徴。
      • 大型前方後円墳 宮崎県日向 西都原古墳群
      • 391年 倭軍は百済。新羅を破りました(好太王碑文)
    • 中期(5世紀)
      • 被災者は馬具・武器の副葬品を伴う武人的・軍事的な特徴。
      • 南九州には熊襲と隼人の墓制(地下式板石積石室墓・地下式横穴墓・立石土廣墓)の墓が存在します。特に、地下式板石積石室墓は人吉盆地、不知火海沿および川内川流域に多く分布しています。地下式横穴墓は宮崎県、鹿児島県に分布します。
      • 横穴式石室が採用され初め、須恵器、金・銀・金銅製品を伴います。
      • 群集墳が出現しました。
        • 熊本県肥後 中通古墳群
      • 413年 倭王 讃は東晋に貢ぎ物を献上。(晋書)
    • 後期(6世紀〜6世紀末)
      • 512年 県・屯倉の設置
      • 513年 北九州の古墳の石室に壁画が描かれました。
      • 姓(臣おみ、連むらじ、君、公、直あたい)の混乱。
      • 527年 磐井の乱
      • 540年 国造制が充実しました。
  • 有力な家族層が台頭し、ヤマト政権はこれらの古墳造築を容認し支配していきまし。個人を国家が直接支配しました律令体制への芽生え。

西海国(9国2島)

 肥後の国が所属しました九州地方は西海道(さいかいどう)と呼ばれました。大化改新以前は、筑紫西偏(古事記)、西州(神代紀)また西道(崇神紀)と呼びました。
◆四ケ国時代
 *大化改新以前の古代には西偏、西州と呼称。
1.火の国   肥後
肥前
2.筑紫の国 筑前
筑後
3.豊の国 豊前
豊後
4.日向の国 日向
大隅
薩摩
◆西海国時代西海国
*701年 大化改新 「続日本書紀」 元明天皇 大宝元年
  • 筑前 ちくぜん
  • 筑後 ちくご
  • 肥前 ひぜん
  • 肥後 ひご
  • 豊前 ぶぜん
  • 豊後 ぶんご
  • 日向 ひゅうが(ひむか)
  • 大隅 おおすみ
  • 薩摩 さつま
  • 壱岐 いき
  • 対馬 つしま
国  名
五機 畿内 大和 奈良 日本書紀によると崇神天皇10年にうちつくにという(四道将軍差遣詔)。大化改新645年の詔で王都の四方を決定した。大倭。
古代の畿内は大和、山背、河内、摂津の四国から構成され、757年和泉を加え大和、山背、河内、摂津の五畿内分けていました。
河内 大阪
摂津 兵庫
山城 京都 山背




東山道 陸奥 大和政権のある畿内から諸国国司へ放射状に七道が出来た。
出羽
近江
美濃
飛騨
信濃
上野 こうずけ
下野 しもつけ
東海道 伊勢
伊賀
志摩
尾張
三河
武蔵
相模
伊豆 静岡
駿河
遠江 とおとうみ
甲斐
常陸
下総 しもふさ
上総 かずさ
北陸道 越後
佐渡
越中 富山、能登
越前 加賀、越前
若狭
山陰道 丹波
但馬
因幡
伯耆 ほうき
出雲
石見
壱岐
南海道 紀伊
淡路
阿波
土佐
讃岐
西海道 筑前 福岡 六ケ国時代 七ケ国時代 七ケ国二島時代 八ケ国三島時代 九ケ国三島時代 九ケ国二島時代 九ケ国三島時代
筑後
豊前 大分 ぶぜん
豊後 ぶんご
肥前 佐賀 肥前を佐賀と長崎に分離した。
肥後 熊本
日向 宮崎 当初、701年には日向、大隅、薩摩で構成されていた、
壱岐 長崎 長崎は肥前の一部と2島
対馬
薩摩 鹿児島
たね島 824年 廃止され大隅国に編入。
大隅 713年日向国から大隅国が分離されました。
琉球 沖縄 明治時代に加入されました。
◆古代
飛鳥時代(6世紀末〜8世紀初頭)
*渡来人が新しい技術や思想を持ち込みました。
  • 607年 法隆寺が建立。
  • 609年 肥後国に百済人80人が漂着したと言います。この頃、日本には120国が存在していました。
  • 645年 大化改新。国造は群領(評造)となりました。
  • 680年 薬師寺建立
  • 701年 大宝律令
  • 702年 大宝律令頒布。日本国は60ケ国3島に統廃合された。
奈良時代(8世紀初頭〜8世紀後期)
8世紀の頃、古代日本 律令時代の行政区分は、五畿と七道(西海道、南海道、山陽道、山陰道、東海道、北陸道、東山道)に分けられていました。
  • 710年 平城京へ遷都
  • 720年 
    • 南九州地方の隼人が反乱したが、大和朝廷は宇佐宮へ勅使を派遣し先勝祈願した。八幡審は兵を率いて大隅・日向へ向かい隼人を傀儡子の舞で油断させて鎮圧。
  • 724年 聖武天皇即位。
  • 744年 宇佐宮にて放生会が開始される。
  • 749年 孝謙天皇即位。宇佐八幡神は奈良東大寺へ参拝した。
  • 758年 淳仁天皇即位。(孝謙天皇は上皇に退いた後、病気となったが道鏡が治す)
  • 764年 再び、孝謙天皇重祚し称徳天皇として即位。
  • 765年 
    • 道鏡は太政大臣禅師となり、弟を太宰府の長官に任命し、朝廷の実権を掌握。
    • 初期の荘園成立。国東半島は宇佐宮の荘園であった。
  • 766年 道鏡は法王となる。
  • 767年 最澄誕生
  • 769年 
    • 道鏡皇位事件発生:太宰主神の阿曾麻呂は、称徳天皇へ“宇佐宮の八幡神は道鏡を天皇にすれば天下太平の世になると託宣した”と報告したので、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐に勅使として派遣した。和気清麻呂は7/11日 呉橋を渡り宇佐宮(宇佐神宮境内の護皇神社に祭神として和気清麻呂は祭られている)に参拝し、“わが国の天子は臣下がなったことはなく皇統に繋がる人物を天子に立てよ”との神託を受け上奏したことで国家天皇の正当な継承を救った。激怒した道鏡により足の筋を切られ大隅へ追放された。
    • 宇佐神宮がある宇佐は、古くから仏教が盛んな地方で、7世紀後半の新羅系、百済系および法隆寺系の瓦が発掘されている。また、宇佐神宮は八幡大神・神功皇后・比売大神を祭神とし全国の八幡宮4万社の総本宮であり、ここから京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮は勧請されました。
  • 770年 
    • 宝亀元年。
    • 光仁天皇即位。和気清麻呂は奈良に呼び戻され豊前国守となり又、長岡京や平安京造営に尽くした。一方、道鏡は下野薬師寺に左遷される。
  • 781年 桓武天皇即位。
平安時代(8世紀末〜12世紀)
  •  794年 平安京へ遷都。
  •  804年 最澄は遣唐使として唐へ渡る前に、航海の無事を祈り参拝した。
  •  805年 
    • 最澄は遣唐使として唐から帰国時に、お礼に参拝した。この後、比叡山で天台密教を開いた・又、空海も参拝したという。
  •  822年 最澄没
  •  901年 日本三大実録の編纂までの6書を六国史といいます。
  • 1154年 源為義は子の源為朝が九州で濫行したため右衛門尉を解任。
  • 1159年 源頼朝 誕生
  • 1167年 平清盛 太政大臣となりました。
  • 1185年 屋島の戦いで源義経は平氏軍を破りました。
  •        源頼朝は諸国守護・地頭の任命権を獲得。
  • 1185年 源頼朝は平氏を壇ノ浦で滅ぼしました。
  •        源義経の追討を目的に全国に地頭職と共に守護が設置されました。
  • 1189年 源義経は陸奥で藤原秀衡に攻められ自殺。(2003.12訂正)
鎌倉時代
  • 1192年 鎌倉幕府成立。源頼朝 征夷大将軍となりました。
  • 1184年 平氏追討の大将軍として京都に派遣され木曽義仲を討ち、2月には一ノ谷の戦いで平氏軍を討ちました。
  • 1199年 源頼朝の没により、源頼家 家督相続。北条時政13人の合議制。
  • 1200年 梶原景時は上洛を企て駿河にて敗死。
  • 1203年 源頼家は病のため地頭職を源実朝に譲った後幽閉され翌年殺害されました。
  •        源実朝は征夷大将軍。北条時政は執権となりました。
  • 1205年 北条義時が執権となりました。
  • 1219年 源実朝は源頼家の子 公暁に殺されが、公暁はまた義時に殺されました。
  • 1221年 承久の乱。六波羅探題 設置。
  • 1224年 北条泰時 執権となりました。北条時房 連盟となりました。
  • 1247年 三浦泰村の乱
  • 1252年 宗尊親王 征夷大将軍となりました。
  • 1274年 文永の役 元博多に上陸しました。
  • 1281年 弘安の役 元 高麗軍は壱岐・対馬に襲来、東路軍は博多に迫るが風雨により撤退。
  • 1293年 鎮西探題を設置。
    • 幕府は九州地方のご家人を支配するために鎮西探題を博多におきました。
    • 北条兼時・北条時家は九州に派遣されました。
  • 1294年 鎮西探題 北条兼時
  • 1296年 北条実政は九州に派遣されました
  • 1297年 鎮西探題 金沢実政
  • 1309年 鎮西探題 金沢政顕
  • 1318年 鎮西探題 阿曾隋時
  • 1321年 後醍醐天皇の親政開始。
  • 1331年 楠正成 挙兵しました。
  • 1332年 後醍醐天皇 隠岐に配流されました。
  • 1333年 後醍醐天皇 隠岐を脱出。足利尊氏 六波羅短大を破る。
  •        新田義貞は鎌倉を攻めたため、北条高時を自殺に追い込み鎌倉幕府滅亡。
南北朝時代
  • 1334年 建武の新政 足利尊氏は湊川の戦いで楠正成軍を滅ぼす。
  • 1336年 足利尊氏は建武の新政により京都から九州に敗走しましたが、筑前国多々良浜の戦いに勝ち上洛しました。この時、九州の武士を統轄するために九州探題を置き一色氏に務めさせました。探題としては、足利直冬→斯波氏経→渋川義行→今川了俊→渋川氏の世襲となりました。
  • 1338年 足利尊氏 征夷大将軍となりました。
  • 1354年 荘園制の崩壊。
  • 1358年 足利義詮 征夷大将軍となりました。
  • 1360年 南朝方が派遣した征西将軍宮 懐良親王(後醍醐天皇の皇子であり、九州官軍の総指揮官)は九州で勢力を持つたため、渋川義行は九州探題として現地に赴任できませんでした。
  • 1368年 足利義満 征夷大将軍となりました。
  • 1371年 今川貞世(了俊) 鎮西探題となりました。
  • 1371年 
    • 明は懐良親王日本国王に封ず。
  • 1372年 
    • 今川了俊は征西将軍宮の拠点や太宰府を占領したため、宮方の菊池氏は肥後国に退却せざるをえませんでした。以降、幕府方が優勢になりました。
  • 1378年 守護領国制の成立。 
  • 1382年 後小松天皇(北朝)
  • 1333年 鎌倉幕府の九州統治機関であった北条氏一族で受け継がれた鎮西探題は、反鎌倉御家人、太宰府長官である少弐貞経および地元の守護である大友貞宗・島津貞久らの襲撃により滅亡しました。
  • 1336年 足利尊氏は建武の新政により九州に敗走しました。
  • 〜1364年 阿蘇家の武将 恵良惟澄(大宮司)は、筑後守、筑前下座郡/肥前曾根崎/豊後日田庄/豊後玖珠庄/の地頭となりました。
  • 1370年 今川貞世(了俊)は将軍足利義満により九州探題任命されました
  • 1392年 南北朝合一
室町時代
  • 1394年 足利義持 征夷大将軍となりました。
  • 1395年 
    • 足利義満は今川(貞世)了俊が強権力になるのを恐れて九州探題 解任され、駿河・遠江の両半国守護となりました。その後、冷泉家歌学を体系化する等文学の道に進みました。渋川氏を九州探題に任命しました。以九州探題は渋川氏が1423年迄、世襲することになりました。
  • 1423年 
  • 1469年 応仁の乱
  • 1530年 
    • 大友宗麟は豊後国に武将 大友義鑑の子として誕生しました。北九州地域の守護であり九州探題でもありました。外国と交易を行う開放的な考えを持ちました。またザビエルとも会い洗礼を受けたキリシタン大名で戦いのない理想郷を夢見ていましたが奥さんとは考えが合いませんでした。1578年島津氏と戦い大敗を喫しました。また、弟は大内家に養子に行きましたが後に殺されました。
  • 1568年 織田信長 入京
安土桃山時代
  • 1576年 織田信長 安土城を建築し移る。
  • 1582年 織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺されました。
  •        羽柴秀吉は明智光秀を討つ。
  • 1586年 豊臣秀吉 太政大臣となりました。
  • 1587年 大友宗麟 没。
  • 1587年 豊臣秀吉は島津を征伐しました。宣教師に対して国外撤去を命じました。
  • 1600年 関ヶ原の戦いで徳川家康は石田三成 西軍を打破る。
江戸時代
  • 1603年 徳川家康 江戸幕府を開く。征夷大将軍となりました。
  • 1612年 キリスト教禁止令
  • 1615年 大阪夏の陣 豊臣秀頼は自殺し豊臣氏滅亡。
  • 1637年 島原の乱(天草四郎時貞キリシタン農民は圧政に抗議して叛乱)
  • 1669年 
    • 荷田春満は京都伏見稲荷の神官の子として生まれました。神道と歌道を学び幕府に国学校の設立を上申したが受け入れられませんでした。古道として古事記・日本書紀・万葉集・令義解等の古典回帰を掲げて国学の基礎を作りました。弟子に賀茂真渕らがいます。
  • 1697年 
    • 賀茂真渕は遠江に生まれ、荷田春満の門人 杉浦国頭から学び、さらに儒医 渡辺蒙庵からも漢学を学び、万葉集や祝詞の研究を中心にして国学者(古代精神=古道)として活躍しました。本居宣長にも古事記等を教えました。
  • 1730年 
    • 本居宣長は伊勢国松坂の商家にうまれ、漢学・医学を学び、賀茂真渕に師事し国学を学びました。古事記伝を残しました。日本文学論(文学の目的は道徳を説くことではなく物のあわれを知る事)、日本語の言語学および古道論(儒教や仏教は道徳的強制で人を抑圧するので古典にあるようにな皇祖神をたたえる神道=紫文要領・石上私淑言)を唱え幕末・維新期の国粋主義の根拠と見なされました。
  • 1736年 荷田春満 没。
  • 1769年 賀茂真渕 没。
  • 1782年 
    • 広瀬淡窓は江戸時代に九州統治の要であった天領 大分県日田市の御用商人の長男として生まれ、父 三郎左衛門から儒学・書道を学んだ後、筑前福岡の亀井南榠/昭陽に学んだ儒学者・漢詩人・教育者です。書経の敬天を尊び私塾 咸宜園で儒教・国学・蘭学・老教を教え門人には大村益次郎や高野長英ら三千人がいました。教育理念は@人材を教育するA国家の用ににたりうる人間育成であったといい、学力で人を評価したと云います。九州いや全国でも名声の高い私塾で、今日でも日田には漢学の面影が残っています。
  • 1799年 
    • 田中久重は筑後の久留米藩城下町に鼈甲細工師長男として誕生しました。発明家、機械技術者として様々なものを製作し、東芝の前進 田中製作所(1875年)を設立し電信機を製作しました。その後、芝浦製作所(1904年)→東芝(1939)となります。幼少より工作が得意で硯箱(9才)、隠し戸小タ箪笥(13才)、井上伝考案者の久留米絣に絵模様織機製作(15才)し人々を驚かせました。からくり儀右衛門と呼ばれるからくり人形の興行後、佐賀→熊本→大阪→京都→江戸と時計技術修行にで、大阪では懐中燭台、風砲、油を燃料にした無尽灯を発明し販売しました。京都では手押しポンプを製造しながらも土御門家(天文学)に入門し蘭学、物理、科学を学びました。1851年 洋式・和式時刻表示の万年時計(七曜、二十四節気、月の満ち欠けおよび干支表示)を発明しました。また、佐賀藩の精錬方に1854年に招かれて、蒸気船や蒸気機関車の模型を製作しました。1864年には久留米藩で精米や川掘削機を製作しました。
  • 1801年 本居宣長 没。
  • 1825年 異国船打払い令
  • 1834年 福沢諭吉は豊前国 中津藩士の子として誕生。
  • 1853年 
                    ペリー 浦賀に来航。
             肥後藩は相模沿岸の警備のため出兵した。(1853〜1863)
  • 1856年 
    • 大分見日田市の儒学者 広瀬淡窓 没。
    • くしくもこの年、吉田松蔭は松下村塾を創設。 
  • 1858年 安政の大獄
  • 1860年 
    • 桜田門外の変
    • 福沢諭吉は幕府 アメリカ派遣使節として咸臨丸で渡米。帰国後は186年から英語塾を開いたり、『西洋事情』刊行く。
  • 1862年 松平容保は京都守護職となりました。
  • 1863年 長州藩 下関で外国船を砲撃。薩英戦争勃発。 
  •        八月十八日の変(七卿落ち)
  •        伊藤博文・井上馨らは英国留学。
  • 1864年 
    • 池田屋事件
    • 禁門の変
    • 新島襄は米国へ密出国。
    • 肥後藩は長州藩征討のため小倉へ出兵する。(1864〜1866)
  • 1866年 薩長同盟。
  •        徳川慶喜 征夷大将軍となりました。
  • 1867年 大政奉還。王政復古の大号令。
  •        坂本龍馬・中岡慎太郎は京都で暗殺されました。
  • 1868年 
    • 戊辰戦争開始。
    • 五箇条のご誓文。
    • 江戸城開城。
明治時代 (1868年 9月 明治と改元))
  • 1868年 福沢諭吉は慶應義塾を港区芝に開きました。
  • 1869年 東京へ遷都
  •        五稜郭の戦い(榎本武揚、土方歳像)
  •        版籍奉還により、藩主は知藩事になりました。公卿・諸侯は華族と呼称。。
  •        蝦夷地を北海道と改称。
  •        大村益次郎 襲撃され死亡。
  • 1870年 平民の苗字使用許可されました。
  • 1871年 日本は廃藩置県の整理後3府82県となりました。
  • 1872年 
    • 太陽暦採用
    • 福沢諭吉は学問のすゝめを発刊。1873年 文明論之概略を発刊。
  • 1873年 全国に鎮台設置。徴兵令
  •        征韓派敗北。  
  • 1874年 板垣退助は立志社創立しました。     
  • 1876年 神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
  • 1877年 明治10年 西南戦争勃発。(2月〜9月)
    江戸時代の士族中心の国家体制を求め、大久保利通らの官僚支配体制に抗議して、薩摩軍は不平士族隊を主体に4万人を動員しましたが、政府軍の新式武器には勝てず1万5千人の死傷者を出して敗北しました。政府軍は徴兵制部隊を中心に6万人を動員して1万7千人の死傷者という多くの犠牲者を出して半年後にやっと終結しました。
  •        
  • 1877年 熊本・大分・長崎において農民一揆 
  • 1878年 大久保利通 暗殺されました。
  • 1881年 田中久重 没
  • 1882年 井上馨 条約改正交渉開始。
  • 1884年 華族令
  • 1885年 福沢諭吉は脱亜論を発刊しました。
  • 1889年 大日本帝国憲法施行
  • 1890年 府県制・郡制
  • 1894年 日清戦争開始
  • 1904年 日露戦争開始
大正時代
  • 1912年 乃木希典夫妻殉死 
  • 1914年 第一次世界大戦に参戦しました。
昭和時代
  • 1926年 
  • 1941年 太平洋戦争開始
  • 1945年 広島・長崎に原爆投下され、終戦。
  • 日本は1都1道2府43県。
平成時代
  • 市町村合併の動きが高くなりました。(2002.11)
  • 熊本県阿蘇郡は阿蘇市になりました。(2005.2.11)
  • 九州新幹線が2011年3月に全線開通する。これにより、熊本・大分・宮崎への観光旅行や帰省が容易になり喜ばしいことです。
*本HPは政治団体・宗教団体とは一切関係ありません。
  目次    熊本の歴史 阿蘇の歴史  宮崎の歴史 九州の歴史

[参考文献]

  ・加藤 巳平 「旧国・県名の誕生」 令文社 1974

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