33.尼崎市西川2の尼崎藩領碑

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尼崎市西川2−13 西川八幡神社境内の北西に建つ(道標ではありません。)
尖頭型角柱 169x19.5x19.5p(頂高4p)
N34.733753 E135.443766


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東面
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│従是東尼ア領           │
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北面
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│従是北佗領            │
└―――――――――――――――――┘

西面
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│従是西佗領            │
└―――――――――――――――――┘

南面
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│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘











(「佗領」は「他領」であろう。北隣の案内板では、異字体としている。)
(尼崎藩領については、「Web版図説尼崎の歴史」
 近世編第2部、成長する摂津地域1、明和上知前後の摂津国内所領変遷
 に詳しい。)

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【1.西川神社を北西に望む 【2.領界石を北に望む 【3.領界石を西に望む】 【4.領界石を南東に望む】
 鳥居の左柱の奥に  社殿左の小鳥居の
 当領界石がある】  更に左に見える】

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【5.尼崎の道標】

北隣の案内板
 (絵)尼崎藩領界碑(あまがさきはんりょうかいひ)
    (西川八幡神社内)
 この領界碑は、注連柱(しめばしら)の移設中(昭和60年8月2日)
に発見され、地元の人の談話から判断すると、旧西川村
にあった3基(旧字樋ノ口(ひのくち)新堤(しんづづみ)山ノ下(やまのした))のうちの樋
ノ口にあったものと考えられます。
 同村は旧中国街道筋にある尼崎藩領で、東方は神崎村
(藩領)と連なり、西方は次屋・浜両村(旗本青山知行
地)と接し、南方は常光寺村(大和国小泉藩)に接し
ていました。大阪を重視する政策により、市域内には藩
領と他領が入り交じる入組領(いりくみりょう)が多くできました。
 碑文は全長240p、碑幅18.5〜20pの花崗(かこう
がん)立柱型で、三面刻の字体・寸法いずれもいままでに現
認された11基(尼崎市域2基・伊丹市域・西宮市域・芦
屋市域各3基)と全く同型です。ただ「他領」の刻字が
この碑では異字体の「佗領」と刻字されています。
 宝永8年(1711)の松平氏入封(にゅうぶ)間もなくの時期に、
入組領(いりくみりょう)の多い川辺(かわべ)武庫(むこ)郡西部及び菟原(うはら)郡内に建立され、
明和6年(1769)上知(あげち)後は整置されたものと思われ
ます。

  尼崎市教育委員会

((絵)は「文化財愛護シンボルマーク。)
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