14.伊丹市松ケ丘の地蔵菩薩道標

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伊丹市松ケ丘1丁目 昆陽池の西、北西―南東の県道142号(塚口長尾線)に
南西からの県道333号(寺本川西線)が突き当たる、三叉路の北西部の地蔵堂内に、北を正面に建つ
地蔵全高   167x85x83.5p
地蔵のみ   78x55x?p
台石上(道標)69x67.5x68p
台石下    20x85x83.5p
N34.78767 E135.39139


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「台石上」
北面
┌─――――――――――――――┐
│右              │
│行基菩薩道          │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│(宝暦三酉歳三月吉日)    │
└―――――――――――――――┘
(南面は『広報いたみ』昭和56年4月15日版の「裏面」より。)

「台石の前の線香置のような石」
北面
┌─――――――――――――――┐
│市場町            │
│五兵衛            │
└―――――――――――――――┘


(宝暦三年(癸酉)三月1日なら1753年4月4日水曜日となる。)
(『広報いたみ』に「昆陽市場町の角屋五兵衛という人の建立によるもの。
 同地の旧家・村上家の分家筋に当り、子孫が西宮に現住と聞いている。」とある。
 又、「もとは、昆陽墓地(今も有る)の北に鎮座していた」とあるので、元位置は道路の南側と思われる。)
(『伊丹の道標をたずねて古道を歩く』では、県道142号を有馬道、県道333号を行基道としている。)

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【1.南を望む、堂内にあり】 【3.博物館の街道と道標地図】 【4.伊丹西部の道標(明治18年地図)】

【参考】横にある保存会の説明碑より


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【5.石板の文】

   記
 この地蔵菩薩付道標
は、宝暦三年(一七五三年)
三月昆陽村市場町角屋
五兵衛によって同村墓
地の北に建立、昆陽寺へ
の道しるべとして行旅
の利便に供し来った。
 今回道路拡巾のため
この地に安置され近隣
有志力を協せ竣工した。
 昭和五十六年八月
  北向地蔵尊保存会


(地蔵(新しい?)、台石、線香台の石質の統一感や、台石(行基道)と線香台(五兵衛)の字体の違い、
 及び、堂内に残る他の石なども考えると、石物の全てが同一時期に作成されたかは疑問である。
  そこで、五兵衛さんの住んでいた「市場町」が宝暦三年(1753)にあったかを探ることにした。
 『伊丹古絵図集成「本編」』「天保十四年(1843)昆陽村絵図」の解説に、
 「昆陽村は…宿駅で…集落は東町・中町・大工町・市場町・辻の町・佐藤町からなる」
 とあり1753年に「五兵衛」さんがいたとの確証はまだ得られていない。
 依って、「地蔵台石道標」を「五兵衛」が作成することが可能かどうかは、今後の検討としておく。)

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【6.堂北面、賽銭箱左が「五兵衛」の石】 【7.昆陽の旧地名(伊丹市公園企画課)】
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